緩慢な自殺
※腹黒彼女

人と人とを隔てるのは皮膚だ。1.5mm程度の、たかだかそれほどの薄っぺらいもので人は隔てられている。暑さや冷たさを享受する、血が通い肉があるその器官で、人を人たらしめる。だからこそものに触れることが出来る。ひたりと掌を頬に添えると、何事かと目を見開いて20センチも背の低いこの女は驚きの色を隠しもしないで顔を上げた。

「……、」

皮膚に熱が伝わる。ヒヤリとした頬と掌の熱が行き交って徐々に温かくなる。唇は柔らかく温かい。その唇は真一文字に結ばれている。自分の掌が大きいのか悠の顔が小さいのか、どちらなのか判別はつかないがすっぽりと覆えてしまう頬。目元の下辺りをつい、と撫でる。

「黙って見てれば」

なんなの、気色悪い。熱を分け合った掌と頬の間に氷の指が差し入れられ、乱暴に払い除けられる。目は口ほどに物を言う。侮蔑の視線を向けつつ悠はまだ控えめな言葉を吐く。

「止めて」

「減るもんじゃねえだろ」

「減る減らないの問題じゃない」

「どんな問題だよ」

「精神衛生」

「大袈裟なやつ」

「好きでもないやつに体を触られて、気分がいいわけないでしょ」

緩やかに眉間に皺が出来、なんとも居心地の悪い空気が生まれてくる。まだ話す気か、と悠は拒絶を示すが気に留めない。それよりも、お前に嫌いじゃない対象が存在していたとは初耳だ。意外じゃねえか。

「無礼にもほどがあるんじゃないの。今に始まった事ではないけどね」

「嫌い嫌いばっかで何もねぇのによく言えるな」

悠は更に、冷ややかに顔を歪め静かにこちらを一瞥する。

「やけに喧嘩腰じゃない」

「そうか」

「当たり前のように扱わないでくれる?アンタの物でもなんでもないんだよね」

「んなこと分かってる」

「何がしたいの。理解に苦しむ」

「いや、いつも通りだな。喧嘩腰はなのはそっちだろ。悠」

「意思表示しただけで喧嘩腰になるわけ。難癖もいいところだわ」

女ってのは非常に面倒臭い。ただでさえ扱い難いのに更にホルモンのバランスとやらで気分はふわりと舞うように、ころりと零れ落ちるように容易く変わる。いや、振り子のように激しく揺れて事あるごとに入れ替わる、と言うのが近いだろう。ちょっとしたことで浮き沈みする。

「難癖か」

据わった目。動じないでいるその態度。啖呵をきるもの喧嘩を売るのもいつもと変わらない。何度となく繰り返されるこのやりとりは、不毛でありながら不毛とは言い切れない。

「今更だよなぁ、おい」

実りのあるやりとりでなくとも、意思の疎通はいくらでもできる。実体として、何かが欲しいと思う。皮膚の向こう、血と肉があるその肉体の熱が、無性に手の内に欲しくなる。

「悠」

顔を上げろ。言うが早いか髪の毛を鷲掴みにして利き手を押さえ込んで皮膚の向こう側、粘膜に無理やり辿り着いた。



熱く柔らかく、互いを拘束する手は自然と絡み合う。ゆっくりと、時間をかけて確実に至る。まだ抜け出せると高を括る。いつでも抜け出せると思っている。手放す気も、傍を離れるつもりもない癖に。

凹凸が重なるように絡み噛み合って離れられずそのまま深く耽溺していく。穏やかだと、残酷だと、美しいと、なんと形容するに相応しいのだろうか。好意も敵意もない。ただ在るだけが互いの意義になっていくのやも知れない。

傍にいるのが当たり前になる。なり得る。なっていく予感がする。そうなるなら、なるしかないなら一緒に落ちていけばいい。



触れた皮膚の温かさと僅かな硬さ。注がれる視線からそれを連想したことで、非常に虫の居所が悪くなった。想像したのは私だけど、そのきっかけを作ったのは花宮だ。故に花宮が悪い。数えるとキリがないその行為の中で、すっかり飼い慣らされている。

肌に触れる手の感触。息が閊える人の体温の高さ。皮膚と骨と筋肉の質感、阻害するものがなにも存在しえない空間。五感がそれ一色になったら、もう太刀打ち出来ない。それを前にすると憎い感情が肉欲に覆い隠されてしまって叫んでみても噛み付いてみても、ことが終わるまで引っ込んでしまう。

「気色悪い」

毒を吐いてもサラリといなす。そう出来ているつもりでいる。求められてはもう完全に払い除けられない。自分が一番分かってる。なんて子供じみた抵抗。それを悟られまいと二重三重に理論武装して花宮に歯向かう。

「嫌い嫌いばっかで何もねぇのによく言えるな」

言われるまでもなく理解している。いちいちそんなことを言うな。アンタだって分かっている癖に。必死こいて自立している私の中に無遠慮に踏み込んでいると、分かっている癖に。

「やけに喧嘩腰じゃない?」

武器を捨てて身を投げ出すような真似はしたくない。許さない。許されない。弱みを隠して非の打ち所がないように装う。一切の綻びも解れもないように立ち振る舞う。そうやって完璧に武装した私を、完膚なきまでに論破して手も足も出ないくらいに負かせる。

花宮、アンタにとったらそれくらい簡単なんでしょ。そうしたらいくらかマシに受け入れられる。負けたから受容したと理由がつけられる。受容する以外に選択肢がない。花宮を受け入れるための理由をこじつける。こじつけるための理由を探している。

「意思表示しただけで喧嘩腰になるわけ?難癖もいいところだわ」

「それが意思表示ってなら、もうちょっと考えて物を言え」

「もっと噛み砕いて言えと?」

「平仄が合ってないもんを噛み砕いても所詮分からねえよ」

負けるものだと分かって食いかかるわけじゃない。負けるつもりない。どうせなら説き伏せてやりたい。でも勝ったって、どうせ私は主導権を差し出すんだろう。アンタに勝てても、何もしようがないんだから。最終的に「好きにされる」ことを望んでいる。憎いと思う相手に、論破され踏み躙られるのは屈辱で。

「顔を上げろ、悠」

「花宮」

それ以外の何でもないというのに、それを望んでいる。だから、強引な痛みにどこか安心感を覚える。気にかけることもせず自分勝手でお構いなしで、傍若無人。押さえられた利き手は大人しくしたまま、不慣れな挙動で左腕を背中に回した。

花宮に負けたから、花宮を受容した。それだけ。そうやってまた縋る。花宮に徹底的に負けること。どこか奥深くの自分でも見ぬふりをしていたところで、常に望んでいた。


20160211
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