鬱屈を喰らい肉にせよ
※腹黒彼女
違和感は前からあったが、やっぱりおかしいと確信した。組手のメニューに取り組む前のウォーミングアップの時点で、左足に鈍い痛みが走った。練習後、僅かに痛むことが多かったが我慢出来ないほどではなかった。
けれども、練習中にここまで痛みが走るのは初めてだった。左足の内側の脛の辺り。痛みを感じている個所に痣があるわけでも、先ほどの練習で突きや蹴りを受けたわけでもない。押せば、じっとりと痛む。
「足、痛いのか?」
「あ、はい。左足の、この辺り」
「若干腫れてるな」
しゃがんでいる私の道着の裾を捲り上げた部長は、目敏くそれを指摘する。
「お前今日はここで切り上げて病院行ってこい」
「でも練習…」
「多分だけど金属疲労みたいなもんだぞ、これ」
お前が入部する前のことだから知らんだろうけど、あいつ疲労骨折で大会二つ欠場したんだよ。そう指差す先にいるのは、紅一点の体格が良すぎる先輩だ。
「まだ時間あるし、根詰めたい気持ちも分かるけどな。原因が分かれば治るもの早いだろ。師範には言っておく」
大会出たいなら今のうち行っておけ、という言い分だ。それは有り難いことだが、練習に向けて上げた気分を持て余してしまう。明日行きます、と口から出かかった反論は意味を持たない。時すでに遅し、だ。
「掛川、今日は病院で早退だから。組手で余ったやつは順番回ってくるまで三連突き。さぼるなよ」
私の返答はお構いなしにどんどん話を進めていくし、練習道具一式をさっさと帰れと押し付けて来るし、挙句私を省いた形式でのメニューを指示し始めた。気遣いして貰った申し訳なさと練習をしたい後ろめたさを感じつつグローブとヘッドガードをつける先輩たちを眺めていると、部長は「しっしっ」と動物を追い払うような仕草をする。勿論、嫌味な意味ではなく。
「さっさと行けって。怪我なんかで欠場はすんなよ。次期部長」
「あとエースね」
「その呼び方、止めてください」
学年に一人しかいないからまとめ役になるのは必然的だし仕方ないとしても、その呼ばれ方に値する力量はまだまだない。他の部員が活動するのを横目に学校を後にし、目的地へ向かう。部長よりメールで教えて貰った病院、というより診療所は思ったよりこじんまりとしていた。
駅前すぐの大通りから一本入った、私有地かと思えるほど細く入り組んだ路地の先にあった。立地が立地なだけあって、閑古鳥が鳴くとはまさしくこの状態を指すのだろう。診察を待っていたのは大学生と思しき女性一人だけ。初診の旨を伝えると不愛想に問診票を渡され、保険証も出してと言われた以外に誰も声を発しない。
診療所の隣は民家らしい。道路で車がエンジンを吹かす音くらいしかBGMがない。壁一枚隔てた向こう側で、診察をする声がくぐもって聞こえる。静かでいいところだ。部活で昂っていた気持ちがスッと静かに落ち着いた。
「掛川悠さん、どうぞ」
待たせちゃってごめんなさいねとフランクに挨拶をする女性は、先ほどまで診ていた大学生に手を振った。その砕けた態度に面食らいつつ診察室に入る。
「高校生だね。学校はどこ?」
「霧崎第一高校です」
「へえ、空手部。松濤館流だね」
問診票に目を走らせながら会話は続く。そこに流派まで書いてはいないけど、きっと先輩のうちの誰かもここでお世話になっていた。だから知ってるんだろう。
「それに剛柔流に糸東流に和道流。懐かしいな」
「空手やってらっしゃったんですか?」
「糸東流だけね。ほかは齧っただけ。体力・筋力がある若い人たちがやっていてかっこいいのは松濤館流。勢いがあるから見ていて気持ちいい。私はそう思うよ」
「はあ…」
いきなり語られた主観にどう返したものかと間抜けな声しか出さない私を見て嫌な顏一つせず、さて、と仕切り直して診察を再開した。
「練習、ハードだね」
「かなり」
「…で、脛が痛い、と。いつから?」
「違和感は一カ月くらい前で、練習中に痛くなったので来ました。大会も控えているので」
「うーん、ちょっと見せて。痛い?」
「ひ、 はい」
どうして医者は痛いと申し出た患部を容赦なく押すんだろう。加減したら正確な診察は出来ないのは想像つくが、あまりに容赦がない。いつも押される直前、患部に走る痛みを想像して息をぐっと押し込んでやり過ごすようにしているけど、我慢しきれなかった。この女性は今までで一番手加減がない。堪えた意味がないほど間抜けな声が漏れた。
「レントゲン撮ろうか」
「後ろのドアから入ってくれる?」
受付で少しばかり顔を見た無愛想な男性に促されるがままレントゲン室の台に座らされて、真正面と左右とを撮って診察室に戻る。あっという間だ。うすぼんやりとパネルに浮かび上がる私の足の骨。それを眺め、うんうん言いながら丁寧に骨に沿って指を滑らせていく。女性はレントゲンから目を離さずに診断名を告げた。
「疲労骨折だね。初期だけど」
「え」
「これ見るとよく分かるんだけどね、真ん中あたりがおかしいでしょう。白い線が入ってる」
指摘されなければ気が付かないほど些細な、細く白い線だ。目を離すとどこにあるのか、素人には見つけるのも至難の業だろう。
「このまま練習続けたら白い部分が少しずつ大きく太くなって、痛みももっと出る」
早くに来て良かったね。ようやくこちらに顔を向けて女性はにっこり笑う。無理矢理に近い形で部活を早退した甲斐があったということか。部長には頭が下がる。
「頑張るのもわかるけどね、無理はダメ。まだ初期だから、しっかり休んで栄養摂ること」
「はい」
「ないよりはマシだから、テーピングはしておいて」
体育は出てもいいけどハードな競技はなるべく休むように。無理はダメ。今は私がやっておくけど、テーピングのやり方だけどこれを見てやってみて。運動部だからしたことくらいあるだろうし。分からなかったらいつでも聞きに来て。ああ、電話でもいいよ。見ての通り忙しくはないから。
矢継ぎ早に説明がてらテーピング方法が書かれたメモと冊子を渡される。あとから知った話だが、スポーツ外科を主とするこの診療所は学生の患者が多いらしい。どうりで学生受けしそうな飾り気のない対応が板についているはずだ。そのお陰かとっつきやすい。
「もう一度言うけど、無理は禁物ね」
「?」
再三に渡り釘を刺され首を傾げると、「掛川さん、いい意味で意固地みたいだから」というようなことを遠回しに言われた。どういうわけか、不思議と嫌な気分にはならなかった。
*
左足が思ったより深刻だったことに、それを自分のこととして受け入れられずどこか他人事だった。痛いのは確かに自分なのだが、どうにもその事実に実感が持てない。とはいえ時間が限られている。出来ることをやらないと。
指示の通りにテーピングをしてみたところ、しっかり固定されていて安定感がある。これは心強い。ソックスで覆いきれなかったそれを見た花宮が声をかけてくる。こいつのことだ。心配の類ではない。
「捻挫か」
「病院行ったら初期の疲労骨折って言われた」
数ヶ月前の大会でのこと。組手のトーナメント三回戦で当たった相手との結果は、お世辞にもあまり芳しいものではなかった。間合いに入れず入られ、打撃を与えられず与えられ、取った倍は取られ、まぐれでもぎ取った得点はすぐさま圧倒的な力で摘み取られ。「けちょんけちょん」とはまさしくこれを言うのだろう。
いいところ一つもなく負けた。ヘッドガードをしっかりつけて視界が狭まる中、突きや蹴りをしっかり受けないと力に押されて体が流れる。踏ん張らないと手が、足が出ない。だが条件はみな同じだ。
背が高くでも低くても、体重が重くても軽くても、経験があってもなくても。慣れと言ってしまえばそれまでだが、ただシンプルな話で力量が違ったというだけだ。
試合を終えた私に向けて先輩たちは「いいところまで行ったのにな」「惜しかった」など激励ともフォローともとれる言葉をかけてくれる。
「負けたのは力不足です」
実際そうだ。自分が分かっている。それだけに外野からの励ましや茶々は余計。気遣いだけで十分だ。内省していると、前方から先ほど対戦した、他校の選手が先輩やら後輩やらに囲まれてやって来る。同学年の彼女は、私より10センチは背が高かった。
試合前、身長差からリーチで不利になることは容易に想像できたが、いつもの練習ではもっと体格差のある先輩にしごかれている。だから分析も足りなかったんだろう。刈り上げに近い髪型をした外見だけなら男子と見紛うほどの彼女。
注視されていることに、あちら一向も気が付いたのか、不自然なほどに会話を試合のことに変え話し始めた。
「いやー、さっきの試合、見せつけてくれたよね」
「敵なしって感じ」
「圧勝じゃん、さすがだよね」
「いや、そんなことないですって」
「あっちも結構攻めて来てたじゃん」
「どう、手強かった?」
「あー、なんていうか」
謙遜する素振りを見せつつも「私は強い」という自信を身から迸らせて笑う。すれ違いざまに私を横目で見下ろして。
「勢いだけで大して怖くもなかったし、なんでもなかったですよ。敢えて感想を言うなら“羽虫みたいだった”ですかね?」
その挑発的な発言に先輩たちは各々反応を示す。面白いほどに、照らし合わせたかのように一斉に後ろを振り返りながら。
「はー?何だ今の」
「態度悪っ…。掛川と対戦したやつは二年だけど、あいつら三年?一年もいたみたいだな」
「一番左のやつ、自分は負けてたのに何を偉そうに」
上級生がああだと下も態度が悪くなる。礼儀も節度もあったもんじゃねえな。口々に反論する先輩たちの主張は頭に入って来なくなる。
―なんでもなかった。
―羽虫みたい。
ああ、そうか。そう言ったこと、しっかり覚えておけよ。澱の中から浮かび上がった気泡が弾けず残る淀んだ水のように、粘り気のある怒りが生まれる。突発的ではないがひどく持続性のある、どす黒いそれが思考に忍び寄る。他校の選手たちが群れをなすのを見る。
私たちは礼儀を重んじる競技に身を置いている。が、相手の中でその意識がどれだけの比重を占めているのかなんて分かりはしない。推測ではあるけど、あいつらにとってのそれは恐らく多くはない。あんな軽口を叩くほどなのだから。だから四の五の言っても無駄だ。
示すのは白枠で囲われたあの場内。あそこでこそ、意味がある。殺気立つ先輩たちは我が事のように怒っている。食ってかからずじっと堪えて睨むだけに留まっているのは師範の厳しい稽古の賜物なのだろう。私はこちら側で良かったと思う。
「喧嘩なら買いましょう。次の大会も出てくるだろうし、いずれ当たりますから」
そうでなくては困る。
「私が羽虫ってなら、直にあっちも晴れて羽虫の仲間入りですよ」
「え?」
“怒ってる自分たち対し、実際に貶められた掛川悠は至って冷静”という事実を前に先輩たちの感情・興味が私に向く。戦ったあと、心底しんどかった怖かったと思い知らせてやる。手も足も出ないほどの圧倒的な力で、今度はお前を捻じ伏せてやる。叩き潰してやる。思い返すと脳裏にその瞬間がまざまざと蘇る。鮮明な怒り。掻い摘んでことの経緯を説明したところ、花宮は前触れもなく平静に痛罵し始めた。
「で、その末オーバーワークで疲労骨折?馬鹿か、お前は」
「初期だけど」
「同じだろうが」
「は」
反論をものともせず花宮は続ける。
「療養に時間食ってまともな練習は出来ないだろうな。完治にどんだけかかるか知らねえが、やりゃいいってもんでもないだろ。故障ほど非効率的なもんはねえ。考えなしか」
「起きたこと、過ぎたことにああだこうだ言っても仕方ないでしょ。これから出来ることするわ。今後次第でどうにでも持ち直せる」
「そんなんだから負けたんだろ」
「何も解りもしないのに外野がぎゃんぎゃん騒ぐのって、みっともないわね。知ってたけど再確認出来てよかったわ」
「限度の見極めも出来ないやつのことなんざ解りたくもねえよ。負けた相手に煽られて言い返しもしなかったんだろ。仕返すなら畳の上でって様になりそうな理由つけて練習してんだろうが別にかっこよくともなんともねえ。ついでに度を越して体痛めつけてんじゃ話にならねえな。更に言われたその場で言い返さなかった時点でもう一回負けてるしな。顔に泥を塗りたくってよく生活出来るな。顔の面がよほど厚いんだな」
「ああ、ご高説有り難く受け取っておく。厳密に言うと畳じゃなくて板張りの床なんだけど、貴方にとったら非常に瑣末なことだからここでは言及しないことにするわ。言い返す返さないについては、こっちにはこっちのやり方があるから放っておいてくれる?正規のルールの下で負かせばいい。それ以外のところでの勝敗は無意味ってわけ。恥もなにもない。要は取るに足らない」
「図星で居た堪れなくなったか。負け犬」
「ねえ」
久しぶりに四肢の末端の細胞までに怒りが行き渡る。愉快と感じるほどに口の滑りがいい。まるで出会った当初の会話のように汚らしい言葉を吐き捨てる。自分の口から、舌から、喉の奥から、出てくるただの空気を震わせ憎悪の念を込めて。
「今言ったこと、一字一句違えず覚えておけよ花宮」
所詮遠吠えだと思っていればいい。アンタから見た今の私はそのようにしか映らないんだから。御託を並べたところで、貼られたレッテルとその偏見は覆りゃしない。それなら力で、それは誤った認識であったと事実を明確にし、汚名返上してやる以外に方法はないし、もとよりそのつもりだ。
握り締めた拳で肩をどついて花宮を睨みあげる。宣言してやる。買った喧嘩には、絶対に勝つ。他校の選手の言動によるものとはまた違った怒りが、臓腑が怒りに湧き立つ。知ってか知らずか、花宮は更に煽る。
「精々粋がってろ」
花宮の言葉は延々と際限なく熱を持ち私を苛む。羽虫だと罵った女にも、私を負け犬だと言った花宮にも、どちらにも勝ってやる。
*
次の対戦校の分析をするべく向かった視聴覚室には先客がいる。使用するには予約が必要で、空手部が使うことは予め知っていた。無遠慮にドアを開け放つとその音に振り返った部長と思しき人物と目があった。おっと、相手は年上だ。一応礼儀を弁えておかねえとな。
「どうも。そろそろ時間なんですけど、大丈夫ですよね」
「ああ、すぐ開ける」
「悠、バスケ部来てるよ。私らは先に戻るから」
部長と横幅のある女子部員がさっさと出て行くが、悠は未だに画面を見ていて微動だにしない。名指しで呼ばれたにも関わらず耳に届いていなかったのか、俺らが入ってきて意外そうな表情をした。
「あんたらも使うの?」
机の上に置かれたDVDの山、レポート用紙に殴り書きにされた文字の羅列に目が止まる。悠以外の字も見受けられる、先ほど出て行った部長と思しき男子生徒の字だろうか。“約束組手Bの応用”、“視線は肩”、“間合い・牽制”だの細々とご丁寧に色ペンで補正してある。
ぎっしり書き込まれたメモを手に、上から流し読みしていると悠の指がにゅっと現れた。少しばかり前時代的な、厚みのあるテレビの画面に映る試合。そこから集めた勝つための足がかり。挙動と視線で「お前がそれを見て意味があるか?」と突き放された上、早々にメモを取り上げられた。
「掛川ちゃん、これ全部見てんの?」
「そう」
言葉を発する時間すら惜しいと再び視線をテレビに戻す。画面に映るのは見知らぬ選手が二人。ヘッドガードを装着し、白い道着を着て同じタイミングで礼をしている。違いと言えば、黒帯の上から更に締められた赤と青の帯くらいだ。審判が開始の合図を出すなりすぐさま突き、蹴りなど技の応酬が始まった。
「赤と青、どっちが目当ての選手だ?」
「右正拳突きからの左蹴りの対応が遅いなら、そこから…」
「無視かよ」
山崎の問いを全く意に介さずに画面を見据える悠は、動きを寸分違わず覚えるつもりがあるかのように噛り付いている。そこまで粗の目立つ画面ではないから挙動は視認できるが、あまりに瞬間的な動作ばかりで見慣れないこちら側としては一体何をしているのか判別がつきにくい。
気合いの入った掛け声、技が決まると観客席から歓声がワッと上がる。審判が右側の選手に向かって腕を横に上げるジェスチャーを示す。物珍しいそれにしばしの間釘つけになったものの、俺らも、この拳やら足やらを相手の体へめり込ませる映像をただ眺めに来ているわけではない。
「そろそろ使いてえんだけど」
画面を見ていた悠は、僅かな間であれ俺たちがそばにいることを意識の外側に押しやっていたらしい。はたと存在を思い出したのか、無言のまま手際よく片づけをしてDVDの山とメモを片手に持ち、空いた手で練習着が入っているであろう鞄を掴む。
「蹴りの受けで後退せず間合いを潰す…」
得た情報を口の中でぶつぶつと呟きながら、視聴覚室の鍵を投げて寄越した。悠の手から離れた鍵は一直線に俺の掌に収まる。軽く放ることをせずほぼ真横に投げつけられたせいで若干手が痛い。八つ当たりか。
「はー、熱心だな。空手部は近々でっかい大会でもあるのか」
「都大会だろ。職員室前の掲示板に大きくないけどポスターが貼ってあった」
関係ないことで話が進む。悠、というより空手部が直近の目標として照準を合わせているのはその大会であろうことは明確だ。
「空手部の部長って結構、掛川のこと目にかけてるよな」
「そうなの?」
「この間、さっきのDVD渡しに来てるの見かけた」
「え?三年のいる棟って遠いじゃん」
「ご足労なことだ」
「教本みたいなのも借り貸ししてるよね。マガジンとか」
「そんなもの読むんだな。わざわざ借りて」
「それに今も、ゴリラみたいな女の先輩も一緒だったけどいたじゃん」
「下級生が一人だから可愛がってもらえてるんだろ」
「三年引退したらどうすんだ。一年がいないなら掛川だけだろ」
「他の部のことなんて知らないしー。一人で頑張るんじゃない?」
「黙々とやるんだろうな」
「いや、一年男子がいるから一人じゃねえ」
「へー」
「ああ、あの細長いやつ」
「知ってるのか」
「殴り合いの練習?か何かで掛川にこてんぱんにされてるのを見た」
「殴り合いの練習って。それ組手でしょ」
「多分それ」
「…蒸し返すようだが、花宮。一年のことをよく知ってたな」
瀬戸がアイマスクをつけながら、埋もれていくはずだった言葉を引っ張り上げた。これから三試合分のデータを見ようってのに寝る姿勢に入ってること、蒸し返したこと。お前じゃなかったらこのDVDケースを投げつけてやってるところだ。瀬戸の指摘に「ああ、そういえば…」と、室内が一気に微妙な空気になる。
「他部のことだ。どうでもいいだろ。それより悠が長居したせいで時間がねえから、手短にやるぞ」
「どっちかっつーと俺らの雑談の方が時間食ってたね」
んだよ、てめえら今日はやけに藪を突っついてくるじゃねえか。甘ったるい香りのするイチゴのガムを膨らませる原を、顔を一切動かさず視線だけ遣る。
「あ、どうぞ。進めてクダサイ」
視線をくれてやったそばから誤魔化しつつ、顔を背けて外で活動している陸上部を見て「寒いのに布っきれ一枚で走ってやんの」と呟く。くそ、釈然としねえな。
*
体育館での練習時間が重なることがままあったが、テストやら練習試合やらもあり、部活の最中に顔を合わせなくなり久しい。手で弾いたボールがネットの隙間から飛び出して、よりによって悠のところまで転がっていった。
こういう形で顔を合わせることになるとは、避けたかったが致し方ない。裸足でつかつかと、グローブを嵌めたまま歩み寄ってくる悠もそれは同じはずだろう。バスケットボールを手に、さあどうぞと差し出す様はわざとらしいほどに恭しい。
「わざわざありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」
他人行儀な挨拶を交わしつつ、一瞬の間。視線が絡むと冷ややかな態度になる。ボールを俺の手に叩きつけるように上から押し付けると、悠は眉間の皺を歪ませて睨む。ひでえ顔だ。鏡見て来いよ。
「邪魔しないでくれる。練習の時間が減る」
「はっ、お前が故障しなけりゃ気にする必要のなかったことだろ。まあ一分一秒を惜しいと思ういい機会じゃねえか」
「私だけならまだしも先輩たちも大会控えてるから」
「連帯感ってやつ?いいね、それ。知ったこっちゃねーな」
「アンタがそれを言う?」
こっちとしてはアンタらに連帯感はあってもなくても関係ないからすんごくどうでもいいんだけど。時間が惜しいという割には長々と話しに付き合うんだな
。傍から見れば雑談に見える口論を切り上げて踵を返す。床に直に触れる悠の足に、以前のようにきつく頑丈に巻かれたテーピングがない。補助程度の、肌色に近いキネシオテープが貼られているだけだった。
「お前、足は」
ああそういえば、と振り返る悠の結い上げた黒髪が揺れる。爪先を床にこんこんと当て、リズミカルに鳴らしながら胸を張った。
「お陰様で、とおっても快調。ご心配には及びませんよ、花宮くん」
まあた始まった。他人行儀な対応。
「なんだその口調、気持ち悪い」
「失礼な」
「まだ根に持ってんのか」
「きれいさっぱり忘れられると思わないで。しっかり覚えてんだから、そっちだけ忘れてるなんて勝手な真似は許さない」
まだ臍曲げてやがる。くそ、女ってのは面倒くせえ。意固地で、粘着質で自己主張が激しくてわがままで高慢ちきで堪らない。その癖、弱いってのに吠える吠える。
「一字一句違えず覚えてりゃ文句はねえんだろ?」
眉間に寄った皺はとれない。悠は噛みつく機会を伺って目を光らせる。
「覚えてるならいい。文句ならあとからたっぷり言ってやる」
*
目の前に立つ悠の顔つきと声の健やかさには参る。天気の良さとは裏腹に、良い予感はほとんどしないからだ。
「おはよう、花宮」
机のすぐ横に立ち俺を見下ろして、静かに告げる。
「報告したいことがあって」
徐に携帯を取り出して画面を眼前に突き出した。あまりに近すぎて何が何だか判別がつかない。悠の手首を掴んで、これが目に入らぬかと誇示するそれを遠ざけてようやく視認した。
画面に表示される写真の中央には、道着を着た数人の男女が写っている。大人の腕ほどの長さのトロフィーと表彰状を手にした悠を中心に、部員と思しきメンバーがそれぞれ満面の笑みで。悠はと言えば、あくまでポーカーフェイスを保ったままの笑顔だった。
「第十四回東京都空手道選手権大会、女子組手部門優勝」
訥々と淀みなく事実だけを述べる。堂々としたトロフィー、手にした時はさぞ嬉しかっただろう。だが、その事実を知ったところでなんの感慨にひたれるわけでもない。ただの情報だ。
「へえ。そうか、そりゃよかったな」
その反応に気を良くしなかった悠は、勢いよく膝頭で俺の足を押し退けて体を割り込ませ画面をぐいと顔に近づける。椅子に浅く腰掛け壁に寄り掛かる俺を覆い隠すように身を乗り出す。かかっていた髪の毛が肩からさらりと落ちた。
「アンタの言う、考えなしの人間がたかが数ヶ月でここまで行けるとでも?」
まだ時間が早くクラスにいる人は少ないとは言え誰かしらが見ている。だというのに、この素振り。ここまで執着的で根深い怒り。よほど俺が憎いらしい。
「確かにアンタの言った通り故障は非効率。でもしてしまった以上はどうしようもないでしょ。私が言ったこと覚えてる?」
「持ち直せる、だろ」
「“今後次第でどうにでも持ち直せる”」
今後の私の努力次第でどうにでも。
「花宮は“そんなんだから負けたんだろ”とも言った」
この結果を見ても尚、負けると言い切れる?鬱憤を晴らすように悠の目は爛々と光り俺を見下ろす。
「見て分かる通りこちとら一対一で試合やってるの。自分で自分を研がないと勝っていけない。口先なんかおまけのおまけよ。そんなちゃちなもんにいちいち食ってかかってなんかいられないわけ。正規なルールの下で、拳でやられたら拳で返す。それがこっちのやり方で、それが全て。場外でのやんちゃなんてガキのすること」
“きれいさっぱり忘れられると思うな。こっちはしっかり覚えてるから忘れてるなんて勝手な真似は許さない”。先日悠が言った言葉が脳内でリフレインする。アンタのやってる競技を否定する気はこれっぽっちもないけど、と悠は前置きをして一層体を近づけて捲し立てる。
「アンタの勝ち負けと私のそれは違う。そもそも土俵が全くもって違うのよ。外野が知った風な顔して茶々を入れるな」
理路整然と述べるつもりでいるそれはお前にとっちゃ正論だろうな。実力でも口でも負けた相手を、次こそ拳で負かす。それだけではなく、成す過程が正当であったと示すためだけにこの数か月尽力したわけか。俺に証明するためだけに。
自分の行動を、目標を遂行する上で己の選択に間違いはなかったと。私の成した事柄は、その事実には間違いがなかったと認めろと。
「言いたいことはそれだけか?」
ふ、と鼻を鳴らす。とんだお笑い種だ、悠。
「凄いな、おめでとう。掛川さん」
薄っぺらな祝福の言葉をどう受け取る?数瞬目を閉じ反芻したあと、静かに瞼を開ける。歪な笑みを浮かべ俺を見下ろす悠は、虫の居所が最高に悪い。これはお前の代わりだと寄り掛かる壁をガツンと叩きつける。その物々しい音にクラス中の人間が注目し、静まり返る。
「それは、どうもありがとう。花宮くん」
微塵もそんなこと思ってもいないのにな。ぎらつく瞳には俺だけが写る。たっぷりと憎悪を含んだ言葉は飲み込めたか?掴めば指の隙間から伝って落ちていってお前を汚すだけだ。汚れるくらいなら飲み干して取り込んでしまえ。アンタの顔なんざ見たくもないと、悠はこれ以上ないほど憎しみを込めて舌打ちをして体を離し取って返す。
「あ、…あの、掛川さん、どうしたの?」
大丈夫?と心配そうに声をかけるクラスメイトの声に耳も貸さず悠は教室を後にする。
「喧嘩か?」
「バカ言え」
古橋の的を射たとも外したとも言える問いにこれが喧嘩に見えるかと、嗤えてきた。
20151220