宣戦布告

「あんな態度だけど優しくしてあげてね」

悠が本音で話せる数少ない友人のクラスメイトが、通りすがりざまにそう言った。彼女、彼氏。そういう間柄であることを指摘すると悠の顔は険しくなる。多少の実力行使も伴うというのによく飽きないで言い続けられるもんだな。純粋さからなのか悪意を持っているかは知らないしあまり興味はない。

それは横に置いておくとして。

悠の調子が悪い。本人に聞いたわけではない。良かろうが悪かろうがそんなことを逐一言ってきたりしないし、悪ければ特に俺なんぞに弱みを見せまいと取り繕うはずだ。しかしこちらが容易く気がつくということはいつも以上に取り繕えていないわけで。

自身に向けられるもの全てに悠は嫌悪している。浅慮な評価や勝手なカテゴライズに一方的な期待。そういう些末でも鬱陶しいもの全部をかき集めて煮詰めて澱のようになった真っ黒い感情を抱えている。憤りを下地にしていながらも、いま悠から窺えるものは真っ黒いそれとは異なる。後味の悪さ、不快感、剥がそうにも剥がせないこびりついた汚れをつけたままでいるような居心地の悪さ。鋭い目つきの瞳にまざまざと現れている。だからいつもと表情が違う。

「どうしたの悠、顔色すごく悪い」

調理実習中に聞こえてきた会話。声のする方に視線を遣ると、悠の顔はひどく真っ青だった。気分が悪くなったらしい。それでもいつものように冷えたような瞳の色は健在で俺と目が合うと普段通りに素気無く対応、或いは無視をした。出来上がった料理は、食欲がないからと悠の口には入らずに友人たちの手に渡った。

落ち着きがない。精彩を欠く。目に見えない何かに振り回されてうんざりしてしてる。今日の悠はずっとそんな有り様だった。

「おい」

声をかけたが、悠は一瞥してそのまま目を逸らした。お得意の無視。聞こえた上で返事をしない。反応を示さないと決め込んでいるらしい。

「おい、悠」

肩を掴んでこっちを向かせて見下ろしてやっても手を跳ね除けるようなことはしないし、拒絶の言葉もない。ブレザーの胸元を掴む俺の手を凝視している。

「無視するとはいい度胸じゃねえか」

ないもののように扱う態度に腹が立つ。目の前にしても透明な何かに制服を掴まれている、とでも言いたげな態度だ。そんな状態が数秒続いたとき、悠は徐に俺の手首を掴んだ。握り拳を作るように、俺よりいくらか小さい手にギリギリと力が込められていく。

「花宮」

名前を呼ばれて悠の顔を見ると、純度の高い憎しみを湛えた瞳が俺を見据えていた。



薄気味悪い、というのが適切かどうかは判断がつかない。なぜなら体験したことのない感触だし、体感することは未来永劫ないはずの感触だから。それが掌だけでなく腕から肩、挙句は全身に広がっていく感じがした。

花宮の胸を一突き。驚いたように目を見開いたのも僅かな間ですぐに倒れ込んだ花宮は私を見て、恨めしそうに呟いた。

「       」

なんと言ったのか、聞こえなかったから知らない。でもいい言葉でないのは確かだし、あの男はロクなことを言い遺さないはずだ。

そう、何を言ったのか、どうでもいい。

これは夢だ。起きてしばらくすればそのうち消えて忘れてしまうもの。もう思い出すこともない。あれは夢のはずだ。なのに、今日見た夢は嫌になるほど鮮明で今でも克明に思い出せる。忘れようと気を紛らわせれば紛らわすほど生々しくと蘇る。

花宮を刺した感触が残り続けているのが、ただただ不快で仕方がなかった。スマホを手にしていても、本のページをめくるときでも、カバンを持っていても、教科書を取り出すときも。硬いようで柔らかい、妙に熱と弾力と厚みのある感触がついて回った。

思考が回らない。先生の声がぼやけて聞こえる。黒板の文字が掠れて見える。何もかもが浮ついてるような感覚にひそかに頭を抱えながら、教室の斜め前方に目を遣る。花宮は何食わぬ顔をして授業を受けていた。奴は死んでない。私は殺してない。それ以前にあれは夢だ。何度考えて理解しても、体の方は素直に受け取らなかった。

調理実習ではピカタを作ることになっていて、普段でも気乗りしないのに夢のせいでますますやる気が削がれる。材料の鶏胸肉がまな板の上で転がっている。そのピンク色の肉に包丁を入れるのと、感触が蘇るのは同時だった。腹の底から湧き上がる不快感に視界が歪んで立ってられなくなって、そのあとは怖気に負けて座りながら作業をした。

食欲も失せてピカタを友人たちに押し付けて、水だけを飲んで過ごした。調理実習なんて休めばよかったと、後悔しても後の祭りだ。

当たり前のことだが花宮は自分勝手だ。顔も見たくない。声も聞きたくない。話をするなんて尚のこと避けたい。それなのにこっちの都合なんてまるで無視して無理矢理接触してくる。「おい悠」と乱暴に制服の胸ぐらを掴んで呼び止めようとしてくる。

無視をするとはいい度胸だ、だと? 勝手に人の領域に踏み込んで土足で踏み荒らした奴が何をほざく。花宮の手首を掴んでやる。さっきまで抱えていた不快感は新たな感情に上書きされた。幻想に惑わされている現状が馬鹿馬鹿しく思えてくる。

この感情は何にも勝るのだ。睨め付けるように花宮を見上げて吐き捨てた。

「花宮、アンタの息の根は私が止めてやる」


20230603
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