交錯しない
※腹黒彼女
耳障りな蝉の鳴き声に蒸し暑い風。汗を吸って肌に張り付いたシャツが不快極まりない。昼から始まった練習は一区切りついて各々休憩している。
「3x3しよーよ」
「すりーえっくすすりー?」
暑い体育館を二つに仕切った向こう側には憎きバスケ部がいる。練習のインターバル中らしく原が妙な提案をしていた。聞き慣れない単語だったのか山崎が訊ねる。
「なんだそれ」
「バスケだけど? 三対三でやるの」
「スリーオンスリーじゃねえの?」
「ボールの大きさが違うだって。あとルールも違くて21点先取か10分間で多くポイント獲った方の勝ち」
「このくそ暑いのに元気だなお前」
「クソ暑いから気分転換」
「自棄じゃないのか」
古橋の呆れたような声に、死んだ魚のような目をして感情が読めない宇宙人みたいなアイツもこの暑さは堪えるのか、と可笑しく思った。別に笑ってるわけじゃないけど。
「ねー、花宮いいっしょ」
若干駄々を捏ねるような語調の原がボールを持っているんだろう。手先で器用にボールを回している姿は想像に難くない。
「負けた方は50mメートルダッシュ20本10セット」
「え? やんのかよ」
「ダッシュの本数が半端じゃないな」
「不参加なら強制ペナルティだからな」
「自分が審判だからってそれはねえだろ花宮」
「人数数えられねえのか。俺もやるんだよ」
遊んでんじゃねえか体育館全面使わせろと文句を言いたくなったが、こうも暑ければ誰だってフラストレーションは溜まる。適度に発散させて悪いことはない、ってことなんだろう。それは監督を兼任している花宮も同じか。アイツがバスケで発散。こっちは嗤える。
「花宮と瀬戸は絶対別チームな」
「一緒にしたらスティールばっかになるからね」
ガキじゃあるまいしはしゃいで全く馬鹿らしい。
「はあ……」
バスケ部のうるさい声を聞きながら固い体育館の床に寝転がって天井をぼんやり眺めて、深く息を吐いた。あまりの暑さとハードな練習メニューに体がついていけなくなって強引に休まされている。今日は軽い練習どころかこのまま回復しなければ早退させられる可能性もある。練習の間は嫌なことを一旦頭の隅の方に追いやって置ける貴重な時間なのに。それができないのは辛い。もどかしい気持ちを持て余しているすぐ隣で野郎どもがゲームを開始した。
「松本ォ! お前あっさり抜かれてんじゃねえ!」
体格のいい奴らが大人数で駆け回れば振動も大きくなる。氷嚢を額に乗せ打ち込みの練習をする様子を見ながらも意識はネットの向こう側に傾いていた。今アイツらがやってるゲームのルールは知らない。ただ、私の知ってるバスケットボールとは違って片方のゴールしか使わないようでコートの片方で攻防が続いているみたいだった。
「ヤマ! テメエはボール持ちすぎだ! オフェンスは12秒しかボール持てねえんだから回せ!」
「なんで俺は別チームなのに叱られてんの!?」
「判断がトロいんだよ!」
「初めてやるからしょうがねえだろ……いでっ!」
「あ、すまないつい癖で」
「古橋、テメ……! 肘鉄すんな!」
ああ、やっぱりうるさい。バッシュが床と擦れる音。バウンドするボールの振動。すぐ近くでは後輩たちの激しい打ち込みの音と気合の声がする。バスケ部の発するものも、仲間が発するものも、音が、振動が、全部が頭に響いて鬱陶しい。気怠さに負けて目を閉じる。感覚が鋭敏になってるのは気のせいではない。夏特有の気候が過敏さに拍車をかける。
「残り15秒で6点差か。ペナルティは回避できそうだな」
「古橋うっぜー、そういうこと言う?」
「事実を述べたまでだろう」
「手ェ抜くなら全員漏れなくダッシュだからな」
妙な緊迫感が走った。試合の終わりまでの短い時間、勝っている方はボールをキープして逃げ切ればいい。しかしそれを許さない。負けている方はその短い時間で確実に得点を入れて巻き返す必要がある。ペナルティを課されて堪るか、という気持ちだけは全員一致しているらしい。しかしラフプレイをしている奴らが一致団結している様はなんとも滑稽だ。
「アホくさ……」
足音でゲーム内容が一層激しくなったのが分かる。バスケに興味なんて全くないし明るくもないけれど攻防の駆け引き、ボールの奪い合い、小競り合い、諸々が繰り広げられているらしい。それもあと数秒だ。すぐに静かになるだろうと思った矢先、一際大きな音がして肩に硬いものがぶつかった。
「痛っ……」
ネットの向こうから入って来たボールが肩にぶつかって、コロコロと私の足元の方まで転がっていってそこで止まった。放って置いてもいいけどあれを取りに来るだろうから無視していると面倒になりそうな予感がする。上体起こしただけで血の気が引いて視界が霞む。情けない。ようやくバスケットボールを拾い上げる。結構重いと感じるのは体調の所為か。
「早く寄越せ」
転がってきたボールを拾ってやってるのになんだその態度は。筋になって流れる汗を拭う花宮にボールを投げつけてやった。バチンと派手な音がしたけど痛がる素振りもしない。くそ、腹が立つ。
「さっきから五月蝿いんだけどバスケ部。遊んでるなら練習切り上げてくれる?」
「遊んでるように見えるのか。脳味噌茹で上がってんじゃねえの」
見下した表情に言葉。腹部の奥の方から怒りがじわりと湧き上がったけど怒りが表情に出ただけで言葉になることはなかった。ボールを投げただけでどうにか回復してた体力を使い果たしてしまったようで、反論する気力も喧嘩を買う体力もない。言われるがまま噛みつかないで座り込む私を見て花宮は鼻で笑う。
「……茹で上がってんだな」
「見りゃわかることをいちいち口にすんな」
フ、と小馬鹿にした色合いが強い表情。氷嚢を首に当ててぐったりする人を見て心配なんかする手合いじゃない。頭の天辺から足の先まで下衆外道の性質が染み込んでいるスポーツマンどころか人として風上に置けない、そういう人間だ、コイツは。
「早く元気になれよ」
「うっざい。アンタに心配されると治るものも治らないわ」
どの面で元気になれよ、などと言ってるんだ。体調を崩したことと花宮はこれっぽっちも因果関係はないが、心配される謂れも一ミクロンたりともないし、例え演技だと分かりきっていても気遣いなどされると気色が悪い上に体調悪化に拍車がかかる気さえする。今日は二度と視界に入ってこないで声も聞こえないようにして気配も消し去って欲しい。温くなっていく氷嚢を首筋に当てまま項垂れる。平衡感覚がない。壁にもたれかかって唸る。体調が一向に良くならないのは、私の神経を逆撫でする存在が間近にいるせいだ。暑さのせいだけではない。煩い蝉の鳴き声に茹だる暑さ、息苦しさすら覚える気温。
「鬱陶しい」
苛立ちを抱えたまま、疲弊しきった体を引きずって家に帰って来て早々に部屋に籠ってベッドに潜り込む。勉強の巻き返しはいくらでもできる。まずは回復に努めることが先決。
「はあ……」
体力はまるでないけど頭の方は別。練習の間ずっと横になっていたせいで割と元気だ。参加で
きなかったメニューはどうだったか、なんて考える余裕すらあるしシミュレーションだって勝手にし始めてしまう。後輩一人ひとりの癖を鑑みて、どういったパターンで攻撃してくるか、どの程度のフェイントに反応してどう対応してくるのか、そんなことが頭の中でぐるぐると回る。挙句には大会で演舞する予定の型の修正点を思い出す。想像の中の私は理想の動きをしている。これが現実でそのまま再現できたのなら最高の演舞になるだろうな、と思い立つ。と同時に何かをふと思い出して目を開ける。
駅で花宮と出会してしまって何やら口喧嘩をした。
そんな記憶がある。体調が悪すぎて何を言われ言い返したのか正直言うとうろ覚えだが相手は花宮だ。別に頓着することも気遣う必要性も感じなかった。
「どうでもいいか……」
そう思った途端に眠気が襲って来て、そのままもう一度目を閉じた。
*
姿が見えないと思ったら悠は体育館の端っこの方で怠そうに寝転がっていた。貧血か熱中症か。重苦しそうな道着は着ていない。薄い体。上下する胸。呼吸は浅い。
「早く元気になれよ」
「アンタに心配されると治るもんも治らないわ」
口調はいつも通り。それでもどうにか絞り出した声はいつもよりか細く覇気がなく、転がっていったボールを手にしていた悠の顔色は悪い。
「ひでえ言い分だな。お大事に、掛川さん。ボール拾ってくれてどうもありがとう」
「ニコニコ笑ってんじゃねえよ花宮。心配もすんな」
気色悪いんだよという捨て台詞を背中に浴びながらゲームを再開した。罰ゲームを課している間にメニューを再構築して練習が終わった頃には日が暮れていたが蒸し暑さは変わらない。
「バカみてえに暑くて参るな」
汗が肌を伝うほどの熱気が籠る駅の構内、椅子に座ってぐったりと首を垂れている悠がいた。この蒸し暑い中でいつからああしているのか。空いている隣の椅子にカバンを投げるように置くと、僅かに動いた。少し乱雑に結ばれて解れかけている髪の隙間からこちらを見遣ってこれ見よがしにため息を吐いた。部活中と比べればだいぶ顔色はいい。
「何か用?」
「おいおいご挨拶だな。相変わらず芳しくないみてえだな」
気怠そうに体を起こして悠は俺を睨む。
「暑さに加えてどっかの誰かさんが茶々入れて来たからでしょ」
「失礼だな。普段なら無視するけど気にかけてやってんだよ感謝しろ」
「それはどうも」
いつもであれば「喧しい」やら「お前何様のつもりだ」と恐ろしい剣幕で歯向かって来て顔面目掛けての上段蹴りあたりを繰り出すはずだか暖簾に腕押しするかの如くまるで手応えのない反応を示す。
「おい」
「気にかけてるならちょっと黙って静かにして煩い」
カバンを抱えて椅子に寄りかかって心底気怠そうに座っている。頭に手を添えながらも逆の手で虫を追い払うような仕草。その不遜な態度が鼻につく。ふらふらしている手を掴むと悠が視線をこっちに寄越した。
「離して」
抵抗する素振りを見せつつもそれを行動に移せるだけの体力はない。一向に手が解放される気配がないと分かって、うんざり呆れたように眉間に皺を寄せて唸った。
「あんたの子供じみた八つ当たりに構ってる余裕ないの。何が気に食わないのは知らないけど部外者の人間に当たるなって」
見当違いもいいところだ。俺はテメエに腹立ててんだよ悠。何を言っても何をしてもそれらしい反応を示さない。悪意が上滑りする感触、とでも言うのか。らしくねえな。
「精々気をつけて帰れよ」
「はいはいどうも」
俺の気遣いの言葉を心底嫌っているはずなのに全く嫌悪しない。堪えるどころか気にかけもしない様子に腹の奥底からジリジリと灼けるような怒りが湧き上がった。ちくしょう、頭にくるぜ。煽ろうが貶めようがうんともすんとも言わないし反論も反撃もなし。
「チッ、覚えとけよ」
「はいはい」
ひらりひらりと躱す悠を横目に、駅に到着した電車に乗り込んだ。ドア越しに睨むと悠の視線と絡む。が、どこ吹く風よろしく無反応のままのだった。最後まで面白くねえ反応ばかりしやがって。
20210829