人魚を拾った。 いや、正しくは平素から奇妙な物ばかりを売り込みに来る馴染みの行商人に人魚を売り付けられ、どうせ紛い物だろうとそれを海に捨ててやったら、数日後私の居城にある池に先の人魚が悠々と泳いでいたので仕方無く回収した、だろうか。 然し経緯は兎も角、様々な事象を鑑みるにどうやら彼女は本物の人魚であるようだ。 小細工無しに何刻でも水の中に沈んでいられる事や定期的に水に浸さないと肌が罅割れる事は検証で明らかとなったし、言動の方も浮世離れ甚だしい。 池の錦鯉と真顔で言葉を交わしている様を見て腰から下を切断され魚と縫合された狂人ではないかと疑いもしたが、冷静に考えればその様な状態で生きられる人間も魚も居る筈も無いので結果的に彼女は異形のモノ──人魚であると認めざるを得ないだろう。 「なまえ、起きているかね」 そんな彼女の仮住まいとしている風呂場に赴き名を呼べば、ぱしゃりと水の跳ねる軽快な音と得も言われぬ美しい声が聞こえてくる。 「はーい、起きてます」 月明かりの下、風呂桶から裸の上半身を乗り出した彼女はにこりと微笑んだ。 水の滴る髪は烏の羽の様に艶やかで、肌も水に触れてさえいれば陶器を思わせる程に美しく、顔立ちも申し分無い。 少々、口調が幼いのと男に裸を見られても気にしない辺りが玉に瑕、と言ったところだろうか。 裸体を恥じる文化は人魚には無いようで、柔らかな丸みを帯びた乳房も桜貝を思わせる乳首も、見られる分には全く気にならない様子だった。 隠されているからこそ淫靡な魅力を感じるのだな、と余り惹き付けられない身体に改めて男の本能を考察する。いや、勿論そこには下半身の異形さも加わってはいるのだろうが。 「どうしたの?あ、もしかして、やっと食べてくれる気になった?」 未だ水の滴る身体に近付けば、満面の笑顔で喜びを表す彼女。 「いや…女性の期待を裏切るのは趣味ではないが、生憎と君を食しに来た訳ではないのだよ。どうにも眠れず時間を持て余してしまってね。話でもと思ったまでだ」 「何だ…そっか…」 一瞬で萎れて項垂れた頭を撫で、伏せられた瞼を飾る細かな水滴に濡れた睫毛を見遣る。 蜘蛛の巣に降りた露を美しいと思った人間は古来より数有れど、人魚の睫毛に降りた露の美しさを知るのは、恐らく私だけだろう。 「折角、その気になってくれたのかと思ったのにな…残念」「大体、何度も言っているだろう?私が君を食す事は有り得ない、と」 「そんなの、老いの歯痒さや死への恐怖を感じるようになったら変わるかもしれないし」 「不老は兎も角として、不死には一切の興味が無いのだよ。人の生は有限だからこそ充実に意味が有る。終わりが消えれば、そこには怠惰しか残らない」 「…変なの」 彼女が私の下に戻ってきた理由は単純で、何でも恩返しがしたいのだそうだ。 紛い物だと思い海に捨てた事を、どうやら彼女は自分を哀れみ海に帰してくれたと勘違いしているらしく、だからこそ恩返しをすべく海鳥に私の居場所を聞き、鷹や鷲に頼み込んで城の池まで運んでもらったのだとか。 だがその恩返しの内容が、昔語りで聞いた獣や妖の恩返しとは少々違っているせいで私は困惑させられている。 金や幸運を与えるのではなく、何と生き胆と肉を私に食らわせ不老不死を与えようと言うのだ。 確かに人魚の肉を食えば不老不死になれると言うが、そもそも不老不死に興味が無い人間に生きたまま自分を食らえと迫るのは、恩返しと言うには不適当ではないか。 前述の理由で不死には興味が無く、不老もこの歳になって今更欲しいとは思わない。 然し何度そう言葉を変えて伝えてみても、彼女は私に食される事を望んで止まないようだった。 人間は不老不死を望むものであり、それを与える事が私に対しての恩返しなのだと、盲目的に信じ込んでいる。 「そうまで食われたいのなら、他の人間を当たってはどうかね。人は強欲だ。不老不死に飛び付きそうな者なら、幾らでも心当たりはあるが」 「もう、それじゃあ意味無いの。私は、久秀に恩返しがしたいんだから」 「…参ったな」 此方を眺める彼女の純粋な眼には、髭を撫でる私の珍しく困惑した顔が映っていた。 食したくはないが逃がしても戻ってくる確信が有り、かと言って殺してしまうには余りに惜しい。 さて、一体どうしたものか。 他者の処遇で悩むなど、久々過ぎて懐かしささえ覚える。 「だって久秀は私を助けてくれたし、狭いけど住む場所もくれたし、食べてくれないけど色んな話をしてくれる。こんなに素敵な人間、他には居ない」 「…それは、褒め言葉と受け取れば?」 「勿論!」 「だが私は、君に幾つか酷な仕打ちをした筈だ。それでも私を素敵な人間だと言うのかね」 「確かにあれは痛かったけど、でもそれで私を信じてくれたでしょ?だから良いの。もう痛くしないし」 初めの頃に行った数々の検証もう良いと一蹴する彼女の一途さと盲目さは、何処か子を溺愛する親を連想させた。 子の行動や思考の都合の良い部分だけを記憶し、喉元過ぎれば熱さ忘れるとばかりに都合の悪い部分は記憶に残さない。 巧みに改竄された、夢のような記憶。 それを基盤に注がれる、不恰好に歪んだ一方的で深い愛情。 それは酷く気味が悪く、けれど酷く私を安堵させる。誰の理解も肯定も不要として生きてきたが、肯定を与えられたら与えられたで気分は悪いものではなかった。 結局は私も、他者を排しきれない人の子だという事なのだろう。 「…そう言えば近々、浴場を新調する予定が有る。君の意見も採り入れさせてもらうから、考えておくと良い」 「わ、そうなんだ。だったら私、もっと広いとこが良いな。空が見えて魚が居て、それでもっと久秀の近くが良い。何時でも食べてもらえるように」 「君は盲目的だな。それでは、本質を見誤るだろうに」 「本質なんて、見えなくて良いの。私は私の信じたものだけで、視界を満たすから」 「…成程。それもまた自由、か。では君の意見も、考慮に入れておくとしよう」 そう答えれば、彼女は喜ばしげに尾鰭で月の映る水面を叩いた。 ハチヤ様、企画参加感謝致します 素敵な作品ありがとうございました。 |