昼休みが終わり、デスクに戻ってやり残していた事務作業を淡々とこなす。
空調の効いた室内は実に快適だが、あと1時間もすればこの炎天下の中また営業に出ていかなければいけない。
それを思うと、キーボードを叩く指の速度も鈍る。
盛り下がっていく気分のままに溜息をついていると、背後から肩をポンと叩かれた。


「よ、静雄。ちょっといいか?」
「トムさん」


振り返ると、尊敬する先輩の姿。
トムさんはこんな俺にも分け隔てなく良くしてくれる、本当にいい人だ。
この人が居なければ俺はとっくにこの会社を辞めているし、逆に言えばこの人が居るから辞められないとも言える。
助かってるんだか厄介なんだか。
そこのところは正直自分でもよく分からないけれど。


「悪いんだけどよ、ちょっとおつかい頼まれてくんねえか?」
「いいですけど…何スか?」
「これ、ある部署に届けるように言われてたんだがちょっと用事が出来て行けなくなっちまってよ。代わりに届けてきてくんねえかな」


これ、と言うトムさんの腕には封書が握られている。
会議か何かの資料だろうか。まあ、俺には関係のないことだけど。
丁度、パソコン作業にも飽きてきた頃だったし気分転換にもなるか、と俺は快く了承することにした。


「大丈夫スよ。で、どこに届けりゃいいんですか」
「ああ、悪いな。じゃ第一営業部まで頼む」
「え」


第一営業部。
封書の届け先を聞いて凍りついた俺の表情にトムさんは気づいただろうか。
行きたくない。いや、行けない。
そうは思ったが今更やっぱり無理です、とも言えない。
ぐるぐると巡る俺の思考回路に気づく由もないトムさんは、じゃあ頼む、と封書を押しつけると足早にどこかへと走り去ってしまった。
取り残されたのは、冷や汗をかいて目を回す俺と、その手に握られた封書だけ。


「…さっさと届けて終わらせちまおう」


パンパンと頬を叩いて気合いを入れると、俺は立ちあがり席を後にした。






第一営業部は、アイツが…折原がいる部署だ。
休憩室で折原に愛の告白を受け、ほっぺたとはいえキスをされたのはまだ記憶に新しい。
煙草の匂いと甘ったるいココアの味。そして、折原の唇。
思い出しただけでも頬が紅潮し、折原の唇が落とされた箇所が熱くなるのが分かった。
くそ、なんて悪態をついてみたところでどうなるわけでもない。

あれからもう1週間が経とうとしているが、何となく気まずくて折原とは一度も言葉を交わしていない。それどころか顔を合わせてすらいない。
同じ会社に勤めているとは言っても部署が違えば、案外会おうとしなければ会わないものだ。
もちろん、折原からの告白に対する返事もしていない。今後するつもりもない。


(…だって、有り得ねえだろ)


アイツが俺を好きだなんて。
ずっと馬鹿にされていると思っていたのに。ずっと嫌われていると思っていたのに。
今でも、あの告白もキスも悪ふざけなんじゃないかと疑っているくらいだ。
実際、あの日から俺が折原を避けているのは事実だが、アイツの方からも俺に接触してくるようなことは一度も無かった。
やっぱり嘘だったんだ。
俺には、そう思い込むことしか出来なかった。






「なんだ、アイツ居ねえみたいだな…」


第一営業部に辿り着いて少しびくびくしながら顔を覗かせてみると、そこに折原の姿は無いようだった。
変に構えていたのが馬鹿らしくなって、封書を目的の人物に手渡すとさっさと退散しようと踵を返した。
万が一にも折原と顔を合わさないように早く戻ろう、と俺も焦ってしまっていた。
故に自分のすぐ後ろに人が立っていることに気付かなかった。
くるりと踵を返して歩を進めようとしたところで、誰かにぶつかってしまった。
相手が持っていたのであろう紙束が辺りに盛大に散乱する。


「あっ、す、すみません!」
「いえ、こっちも不注意で…」


咄嗟に謝罪をすると、俺にぶつかった反動で尻もちをついてしまったらしい相手が頭を掻きながら此方を見上げる。
その瞳と目があった瞬間、俺はきっとこれでもかというほど嫌な顔をしただろう。
畜生、なんてお約束の展開だ。運命の悪戯とでも言いたいのか。
もし本当に神様というものが居るのだとしたら、俺はそいつを呪いたい。


「お、りはら…」
「あれ、シズちゃん?」


固まる俺を余所に、丸い紅い瞳で俺を見上げた折原は一瞬驚いたように声をあげたあと、何かを思い出したように辺りに散乱した紙を拾い始めた。
しばらくボーっとして動けなかった俺も、一瞬遅れてから紙を掻き集める。


「ゴメンね、ちょっと考え事してて。大丈夫?」
「い、いや、俺もわりぃ…」
「シズちゃんがうちの部署に来るなんて珍しいね。何か用?」
「いや、別に…もう、終わったから」
「そ?…ならいいけど」


掻き集めた紙束を手渡すと、折原はいつもと変わらない表情でニコリと笑った。
じゃあね、と肩を叩かれたかと思うと折原はさっさと部署へと戻っていく。
…なんだ、こんなもんか。
実際、会ってみるとこんなにも呆気ないものだったのか。
折原の態度も今までと何ら変わるところも無かったし、変に意識していた俺のほうが馬鹿みたいだ。
何、期待してたんだろうな、俺。
いつもと変わらない折原の態度に心の何処かでがっかりしている自分に、俺は気づいていた。
気づいていたからこそ、その理由が分からなくて心がもやもやする。


(…胸糞わりぃ)


さっさと戻って仕事の続きをしよう、そう思って歩きだしポケットに手を突っ込むと、指先にある感触が伝わる。
カサリ、と音をたてたそれを取り出してみると、小さく折りたたまれたメモ用紙のようだった。
何だこれ、こんなものをポケットに入れた覚えは無い。
不思議に思いながら広げると、そこには小さな文字で書かれた短いメッセージ。
その几帳面な字が一体誰に書かれたものなのか理解すると同時に、俺の唇からクソ、と悪態が漏れた。



『今晩7時、この間の休憩室で待ってるよ』









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