「たらいまぁ」


玄関から響いてきた能天気な声を合図に、パソコンを叩く指を止め声がしたほうへ向かうと、先程の呂律の回っていない帰宅の挨拶から察しは付いていたが、案の定そこにはすっかり出来上がったシズちゃんがだらしなく横たわっていた。


「ちょっと…、しっかりしなよシズちゃん」


とりあえず途中で力尽きたらしい脱ぎかけの革靴を脱がせてやったが、それに対し何か反応を見せるでもなくシズちゃんは全身の力を抜ききった軟体動物のように玄関のフローリングに身を投げ出しされるがままになっている。

今日は、12月31日。仕事納めである本日、シズちゃんの職場では忘年会が行われていた。元バーテンダーのくせに酒に弱く、普段ほとんどアルコールを口にしない彼がここまで酔っ払うなんて珍しい。
流石にこのままにはしておけないので、寝室へ運ぼうとシズちゃんの肩を抱き寄せると、酒臭い吐息に混じって彼のものではない香水の匂いが鼻を掠めた。
今まで嗅いだことのないムスクの香り。
これはあのドレッドヘアーの上司のものか、後輩のロシア娘のものか、それとも他の誰かのものか。何にせよ、他人が付けていた香水が移り香として残ってしまうほど、誰かが彼の傍に居たという事実は決定的なものだ。

彼にだって付き合いというものがある。まさか世間との繋がりを蔑ろにして俺だけを見ていろ、だなんて自己中心的な言い分を押し付けるつもりは勿論無い。だが、面白くないものは面白くないのだ。
俺だって、こんなでも本当は恋人と過ごす年末というものを柄にも無く夢想していたりもしたのだ。何も特別なことは無くてもいいが、二人でゆっくりと年越しそばを食べたり炬燵に入ってテレビを見たり。ぼんやりと思い描いていたそんな計画はシズちゃんからの素っ気ない『今日、晩飯いらなくなった』というメールで全て塵と消えてしまった。

ぐったりと横たわったままのシズちゃんの身体を抱き抱えて寝室へと運ぶと、ベッドへと下ろす。
少々手付きが乱暴になってしまうのは、致し方のないことだと許してほしい。折角の大晦日に恋人をほったらかして飲んだくれていた彼に対するささやかな罰だ。
呼吸が苦しそうなので少し襟元を緩めてやると、うっすらと朱色に染まった鎖骨が見えて、思わず生唾を飲み込む。
その色香にぐらりと理性が傾いたが、さすがに前後不覚に陥るまで酔っ払っている人間に手を出すほど、見境は無くしていないつもりだ。
かと言ってこのまま彼を眺め続けているのも目に毒だ。どうせ彼が目を覚ます気配も無いのだから、やりかけの仕事を片付けてしまおう。
そう思い、踵を返しかけた俺の腕を眠っていたはずのシズちゃんに突然掴まれた。そのまま引き寄せられた俺の身体は、振り向く余裕すら無く後ろ向きにボスンとベッドへと沈んだ。


「ちょっ…と、シズちゃんっ…!」


まったくこの酔っ払いが!
やりたい放題の彼に文句のひとつでも言ってやろうと、口を開きかけた俺の言葉は途中で止まる。シズちゃんの両腕が俺の腰に回って後ろからしっかりと抱きすくめられてしまったからだ。


「…やっぱり、お前の匂いが一番安心する…」


俺の首元に鼻を埋め、むにゃむにゃと寝言混じりにそんなことを言われるものだから、先程の苛立ちは何処へやら俺の毒気もすっかり抜き取られてしまった。だって、そんな言葉反則じゃないか。
シズちゃんのその言葉の後、すぐさま安らかな寝息が聞こえてくる。こんなにしっかりと抱きしめられてしまってはどうせ身動きも取れないし、俺もこのまま寝てしまおうか。

リビングで付けっぱなしにしていたテレビから、カウントダウンの合図の後に「ハッピーニューイヤー!」と歓声が沸き起こるのが遠く聞こえた。
たまには、こんな年越しも悪くない。



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