※三十代後半くらいのイザシズ





いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
微かに聞こえた物音で目を覚ますと、丁度シャワーを浴びてきたらしい臨也が濡れた髪をタオルで大雑把に拭きながら戻ってくるところだった。
ベッドに寝そべったままの俺の目が開いていることに気付いた臨也は、手にしていたミネラルウォーターを小さく掲げてみせた。黙って手を伸ばすと、臨也はそれを一口飲んでから何も言わずにボトルを俺に手渡し、俺も何も言わずにそれを受け取る。
普通なら軽く礼でも言うべきシーンなのかもしれないが、今更そんな細かいことを気にするような間柄でもない。
ボトルに口を付けると、冷たい水が喉を通っていく感覚がやたらリアルに感じられた。思いのほか喉が渇いていたらしい。
臨也は俺に背を向ける形でベッドサイドに軽く腰かけた。濡れている臨也の髪から拭ききれていない水滴がポタリとシーツに染みを作る。おい、と声をかけようとして、やっぱり止めた。どうせそのうち乾くだろう。

ぽたり、ぽたり。
一定の間隔で滴る水滴越しに、臨也の背中にぼんやりと視線を送る。
臨也も俺も、実年齢の割には若く見えるほうだろうと思うが、蓄積した年数は誤魔化しようのないものだ。若い頃はもっと引き締まっていた身体も、今は少しくたびれて見える。
だがそういった感想は心中に留めておくことにしている。「老けたな」なんて言おうものなら臨也は確実に不機嫌になるからだ。
もうひとつ「太ったな」も禁止ワードだ。脂肪が目立ち始める年頃である同年代の他の男に比べると臨也は格段に引き締まった身体をしているが、それは本人の並々ならぬ努力のお陰である。それに食事制限をして週一のジム通いをしていてもやはり若い頃に比べてどうしても贅肉は付きやすくなってしまうものだ。
もともと太りにくい体質であるが故に、特にこれといった努力や我慢をしなくても二十代の頃と変わらぬ体型を維持している俺を臨也が意識しているのも知っている。
だから俺は流れた年月の分だけ歳を重ねた臨也の背中を、何も言わずにただ眺めるだけ。


「…出産祝いって普通どんぐらい渡すもんだ」


名前を呼んでもいないし疑問形にすらなっていなかったが、ここには俺達2人しか居ない。言葉を投げかけた先に居る相手は決まっている。
例え答えが返ってこなかったとしても構わないとさえ思ったが、臨也は両腕を後ろにつきベッドに深く腰掛けると「幽くん?」と静かに一言呟いた。スプリングがギッと軋む。


「ああ」
「男の子?女の子?」
「…そこまで聞いてねえ」
「ふうん」


さほど興味も無さげにそう呟いたっきり、臨也は何も言わなくなった。俺の問い掛けに対する答えを返すつもりも無いようだ。

一体いつからだったろう。
臨也とこんな関係になったのは。
一体いつからだったろう。
俺の前に居る時の臨也の口数が極端に減ったのは。
一体いつからだったろう。
自分自身の人生に見切りを付けたのは。

二十代の頃は、俺もそれなりに自分がこれから辿るであろう人生の道筋に少なからず希望を抱いていた。自分がろくでもない人間だということは分かっていたが、それでもまだやり直せると思っていた。
普通に恋人を作って、結婚をして、やがて自分の子供を産んでもらう。誰しもが辿るそんな普通の出来事が、自分の人生の道筋にも存在していると思っていた。
そうではないと気づいたのは、三十代に差し掛かった頃だ。
ごく普通の幸せで暖かな人生なんて、自分には不釣り合いなのだと気付いてしまった。いくら夢を見たって、希望を抱いたって、結局そんなものはただの分不相応な夢物語に過ぎなかった。
いくつ歳を重ねても、結局自分は何も変わりやしなかったのだ。
他人と接することが恐ろしく、愛情というものに臆病になってしまう。常人より気が短いことも怒りを爆発させてしまった時の性質の悪さも分かってはいるが、一体何が自分の怒りの起爆剤になるのか、何がキッカケで自分は我を忘れるほどに怒り狂ってしまうのか。
いくら歳をとっても自分自身のことを、自分自身が全く認識しきれていなかった。
こんなままでは、とてもじゃないが誰かと付き合うことやましてや結婚だなんて出来る筈も無い。例え大切な存在が出来たとして、それを自分自身の手で壊してしまう可能性だって大いに有り得るのだ。
子供の頃に恋焦がれていたあのパン屋の彼女のように。

弟が幸せになることは、兄としてとても喜ばしいことだ。
結婚をすると聞いたときも、子供が出来たと聞いたときも、驚きはしたものの「良かったな」と俺は素直に喜び微笑んだ。その気持ちや言葉に嘘は無い。
だが、時々不安になるのだ。
弟は、俺の代わりに無理をして幸せになろうとしているのではないかと。
結婚や出産、長男であるくせにお嫁さんの顔も孫の顔も見せてやることが出来ない俺が諦めて捨ててきたものを、弟が代わりに拾い上げて仕方なく請け負っているのではないかと。
なんて勝手な想像なのだろう。弟が折角絵に描いたような幸せを掴もうとしているのに、そんなことを懸念するなんて全くもって杞憂としか言いようが無い。
俺がそんなことを心配していると分かればきっと弟は「そんなことない」と否定するだろう。「くだらない」と呆れるかもしれない。
自分でもそう思うのだ。きっとそれは、自分が諦めてきたものに対する後ろめたさや、自分では手が届かなかったものに対する憧れが引き起こしている単なる思い込みだ、と。

だが、もしそうじゃ無かったとすれば。
ただの考え過ぎなどでは無く、本当に弟が俺の代わりに無理をして「良い息子」の役割を演じているのだとすれば。
そう思うと、泣きたいような罪悪感が胸を襲い心臓がギュッと痛む。
この歳になるまで生きてくる中で、俺は色々な人に色々な迷惑をかけてきたと自覚している。友人・知人・名も分からぬような見知らぬ誰か。だが誰よりもその比重が多いのは、やはり両親や弟だろう。
数えきれぬほどの迷惑をかけてきた相手に、未だ更なる負担を強いているのかと思うと、堪らなくなる。考え過ぎだと思ってはいても、少しでもその可能性が存在するかもしれないと考えると、やり切れない気持ちで胸がいっぱいになるのだ。


「…別に、そんなに気遣わなくていいんじゃない?」


今まで黙って携帯を弄っていた臨也が突然口を開く。
まるで心の内を読まれたかのようなタイミングで漏らされたその言葉に驚き思わず身を起こしかけたが、その次に臨也が続けた台詞で、別に俺の考えを読まれたなどという訳では無かったことがすぐに分かった。


「出産祝いなんて、ほんの気持ちだけでさ。幽くんならお金なんて腐るほど持ってるんだから、君のなけなしのお金なんて嬉しくも何ともないだろ」


先程の「出産祝いはいくら渡すものなのか」という問いに結局返事は返ってこなかったのでスルーされたのかと思っていたが、そういう訳でも無かったらしい。
今更な返事を寄越す臨也の背中に目を向けて見ると、やはりそこには先程と同じく少し丸まった背中があるだけで、別段こちらのことを気にしているような雰囲気は無い。
そのことに少し侘しさを感じながら、目線をもう一度天井へと向けた。


「…九瑠璃と舞流は、結婚とか、そういうの無いのか?」
「ある訳無いじゃん。アイツらはいい歳こいて未だに羽島幽平の追っかけやってるし、双子同士で仲良く百合やってるよ」
「…お前は、したいとか思わねえのか」
「はあ?何それ」


声の聞こえ方が変わったことから、今まで背を向けていた臨也が此方を向いたのだということが分かった。
だが俺の目線は天井に縫い付けられたままだ。やがて臨也が小さく溜め息を吐いて、また背を向けたのが視界の端に映った。


「…俺は別にしたいと思わないよ。これからのことなんて確実には分からないけど、まずその気持ちが変わるとも思えない」


昔の臨也なら俺がこんなことを問いかけようものなら「何言ってるの、俺とシズちゃんはもうとっくに結婚してるじゃないか!」などとふざけた冗談を言ったかもしれない。
だが今の臨也は少なくともそんなユーモアは持ち合わせていない。俺も、今更そんな下らない冗談を聞くつもりなど無い。
「結婚をする気なんて無い」
昔の臨也なら言わなかっただろうその素直な言葉を、俺はどう受け取ればいいのだろう。
今後臨也が違う女の元へ行ってしまうような可能性が無いことを喜ぶべきなのか、俺たちの関係に今以上の進展が望めないことを悲しむべきなのか。
だが、臨也のようにハッキリと言葉にすることは出来ないが、きっと俺もこいつと同じ気持ちだ。


「…シズちゃんさ、もしかして親や弟に悪いとか思ってる?親に子供の顔を見せれないとか、弟が代わりに無理してるんじゃないかとか」
「………」
「馬鹿らしいよ、そんなの。一度しか無い人生なんだから自分のしたいようにしなきゃ損ってやつさ」


まるで何の躊躇いも無くそんな風に自分勝手な主張を言い放つ臨也は、ある意味真っ直ぐな男なのかもしれない。勿論その道筋は一般的なものからは外れて変な方向へと伸びてしまっていることに間違いは無いが。
臨也のことをなんて親不孝なんだとなじることは簡単だ。だがいくら御大層なことを言ったって、俺だって臨也とそう変わりはしない。
むしろ親や弟をダシにして、まだ心のどこかで捨てきれていない普通の幸せというやつへの未練を正当化している自分のほうがよっぽど見苦しい。


「いい息子を演じることはきっと簡単だよ。でもそんなの結局嘘っぱちで何の意味も無い。真っ当な人生から外れた半端者は、それらしく生きていきゃいいんだよ。俺も君も、ね」


今日の臨也は珍しくよく喋る。まるで昔のコイツを相手にしているようだ。
そう思いまたチラリと声のする方へ視線を向けると、そこにあるのはやはり年齢を重ねた臨也の少しくたびれた背中だ。聞こえてくる声だって、若い頃に比べ少し低くなり所々掠れている。
年月を重ねる度に臨也の身体に刻まれていく皺や身体のたるみ。本人は嫌がっているそれに、俺はどこか愛しさにも似たようなものを感じる。
臨也の身体に訪れる変化のように、これから一緒に過ごしていく月日の中で俺も臨也の中に何かを残せるのだろうか。
そんなことが脳裏を掠め、あまりにもらしくない考えに自分自身で苦笑を漏らした。
思春期の中学生じゃあるまいし。愛だとか恋だとかそんなものが自分達の間に今まで芽生えたこともこの先芽生えることも有り得るはずが無い。
俺たちの間にあるのは、切りようもない互いへの執着と、みっともない仲間意識だけだ。

臨也の腕をグイと引っ張りこちらへ引き寄せると、倒れ込んできた身体をベッドへと縫い付けた。
突然の出来事に臨也が少し驚いたように目を丸くしたのも一瞬のことで、すぐにその瞳には呆れたような色が浮かびあからさまに溜め息をこぼされる。


「君のその性欲は昔も今も衰えることを知らないんだねぇ」
「ジジくさいこと言ってんなよ」
「俺さっきシャワー浴びたばっかなんだけど」
「やる気が無えなら、じっとしててもいいんだぜ。俺がお前に突っ込んでやる」
「冗談、そっちのほうが嫌だよ。この歳で今更新しい扉なんて開きたくも無い」


渋る臨也の身体に馬乗りになりその首筋に噛みついてやると、ぶつぶつと文句を言っていた臨也の紅い瞳に情欲の灯がともる。
何だかんだ言ったって、結局お互い様だ。勿論じっとなんてしているはずもなく、やがて俺の身体に伸びてきた臨也の手にニィと笑いかけてやると、臨也が少し不服そうに眉を寄せた。

俺みたいな人間が真っ当な幸せを望むなんて馬鹿げている。
クズみたいな俺の人生の道連れにするのは、同じくクズみたいな人生を歩んできたコイツが一番お似合いだ。








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