別に忘れていたわけじゃない。 日付が変わると同時に弟がメールを送ってきてくれたし、その文中に宅急便でプレゼントを送ったという内容も書かれていた。携帯の画面を開くと目につく待ち受け画面にぼんやりと浮かぶ日付を見て、1月28日という日が何を意味するのか分からないほど自分のことに無頓着でもない。 それならば何故、誕生日である今日自分の心は少しも浮き足立つこともなくこれ程に冷めきっているのか。答えは簡単だ。ただ二十数年前に自分が産まれたという事実が存在しているだけのこの日に、何ら特別性を感じないからだ。 産んでくれた親に対する感謝はあれど、ただ産み落とされただけの自分が祝われる側だなんて何となくお門違いな気さえするのだ。 そんな思いもあっていくら誕生日だからと言ったってそれを誰かに公言するような気にも勿論ならなかったので、いつも通りに出勤して、いつも通りに仕事をしている中、トムさんがふと思い出したようにアッと声を上げて「そういやお前今日誕生日じゃなかったか?」と此方に視線を向けた時、ただ一言「はぁ」と何の感慨も無く気の無い返事を寄越した俺に、彼は少し目を丸くして驚いたようだった。 誕生日であることを問いかけた時の俺を見るトムさんの目に、少し申し訳無さが滲んでいるように見えたのは、きっと長い付き合いになる後輩の誕生日を忘れてしまっていたからなのだろう。 だから、俺なんかの誕生日を忘れていたぐらいのことで貴方が変に畏まる必要は無い、という意味合いも込めて何も気にしていないような素っ気ない返事を返したのだ。実際、そんなことは少しも気にしていなかった。だが、その返事があまりにも素っ気なさ過ぎたのかもしれない。 トムさんは困ったように頭を掻くと、俺の少し後ろを歩くヴァローナとチラリと目を合わせた。 「そういやお前、毎年誕生日の時こんな感じだったよなぁ」 「…そッスか?」 「誕生日とは、対象の方が生まれたことに感謝し皆でお祝いをする日だと認識しています」 「そーそー。普通はみんなで祝うもんだし、当の本人はもっと嬉しそうにするもんだぜ?」 「でも、俺なんかが生まれた日なんて、いちいち祝うもんでも無いですし」 「…お前って、何か変なとこいちいちネガティブだよなぁ」 いくら真っ当に生きていきたいと思っていたって、そんな自分の願いとは真逆にあまりにも堪え性の無い性格のせいで周囲に多大な迷惑をかけ続けているのが現実だ。自分がろくでもない人間だという自覚は勿論ある。 だからいくら誕生日だといったって、誰かに祝ってもらおうだなんてそんな図々しいことは思ってすらいない。だがそれを素直に吐露すると、トムさんは眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰したような顔をしてみせるのだ。 「よし、今決めた。今日の昼飯はトムさんのおごりだ。お前らの好きなスイパラ連れてってやるから、ケーキでもプリンでも好きなだけ食え!」 「異論ありません。素晴らしい思考。トムさん、お腹が太いです」 「それを言うなら太っ腹、な。ヴァローナ」 突然のトムさんの提案に俺が異論を唱えるよりも先に、すかさずヴァローナが賛成し、わざとなんだか天然なんだか分からないコントを繰り広げたりするものだから、ますます俺が口を挟む隙が無くなってしまった。 わざわざ祝ってくれるその気持ちが嬉しくないわけじゃない。だが、やはり自分のためにそんな金と労力を使わせてしまうのかと思うと、嬉しさよりも申し訳無さのほうが僅かに勝ってしまうのだ。 戸惑ったように眉を寄せた俺を一瞥すると、トムさんは「いいだろ?」と視線で肯定を促す。 「…でも、やっぱ俺、そんな…」 「あのな静雄、この際お前がどう思ってるかなんて関係ねーんだよ。俺達がお前を祝ってやりたいから祝う。ただ、それだけのことなんだから」 な?と微笑ったトムさんの隣で、ヴァローナが小さく頷いてみせた。トムさんの提案に真っ先に乗っかって、ただスイパラに釣られただけかと思ったヴァローナも、本当は俺のことを祝ってくれようとしていたのかもしれない。大切な先輩と後輩のその純粋な気持ちを、無碍にすることは出来ない。 「…すんません、ありがとうございます」 そう呟くと、トムさんがにかっと豪快な笑みを浮かべて俺の背中を叩いた。 結局昼はトムさんにスイパラに連れていってもらい、遠慮することなくプレートに沢山盛りつけたヴァローナと、見ているだけで胸焼けを起こしているらしく顔を歪めていたトムさんの前で、数々のケーキを腹に収めた。 そして仕事を終えて家に帰ろうとしていると偶然門田達と遭遇し、話の流れで誕生日祝いついでに一緒に飯を食うことになり露西亜寿司でちゃっかり奢ってもらってしまった。 そんなことをしている間に辺りはすっかり暗くなり、ようやく家路に着く頃には自分の誕生日はあと残り10分しか残されていないような時間だった。 「…すっかり遅くなっちまったな」 先輩と後輩に祝ってもらい、偶然会っただけのかつての級友にまで飯を奢ってもらい、俺は自分の想像以上に恵まれていると思う。ずっとひとりぼっちだと思っていた自分の周りには、思っていた以上に沢山の人が居てそして自分なんかのことを気にかけてくれている。 それは、とても幸せなことだと思うのだ。 だが、胸に巣食うこの気持ちはなんだろう。どこか満たされていないような、満足しきれていないような、もやもやと渦巻くこの気持ち。これほどまでに色々な人に祝ってもらっておいてまだ不満だとは、なんて罰当たりなのだろう。そう思うものの、やはり自分の気持ちに嘘はつけない。このままスッキリとしない濁った気持ちを抱えたまま、見て見ぬふりをするのは嫌だった。 「…いつまでそうしてるつもりだよ。あと10分しか無えんだぞ」 人気の少ない裏通り。暗闇に包まれた背後に向けて言葉を投げかけると、闇が佇んでいるだけのように見えるその空間がふいに揺らめく。暗い物影から躊躇いがちにソッと姿を現したのは、やはり折原臨也だった。 「…気付いてたんだ」 「気付いて欲しかったんじゃねえのか」 「……本当はね、シズちゃんの誕生日に君が望んで止まない『平和で静かで穏やかな日』をプレゼントしてあげたかったんだよ。そのためには、一番起爆剤になる要因の俺は絶対に君の前に姿を現しちゃいけないんだ」 「…でも、駄目だった」と苦々しげに呟いて臨也は目を伏せる。 あまりにも気が短か過ぎる性格を自負している俺が、今日はたったの一度もキレていない。それは色々な人に誕生日を祝ってもらえて機嫌が良かった、ということもあるだろうが、それだけではないことも勿論分かっている。 今日はいつものように街の不良やチンピラに喧嘩を売られることが一度も無かった。仕事で料金回収に向かった先の客も、誰一人として支払いを渋らずにすんなりと金を寄越した。 俺の感情を昂らせることが何ひとつとして起こらなかったのだ。 それをただ今日は運が良かった、とすんなり片付けてしまうほど俺も鈍感では無い。 俺を怒らせる原因を消す、そんなことが出来てしまう人物はたった一人しか心当たりが無い。折原臨也が何か根回しをしていたのだ。まさか、それを俺の誕生日プレゼントに仕立てていたとまでは思っていなかったが。 「俺も、間接的にじゃなくシズちゃんを祝いたいと思っちゃった。…結局、そんなの単なる俺のエゴだけど」 お前の意思なんか関係ない、祝ってやりたいから祝うんだ、と今日トムさんが言っていた台詞が頭の中に反芻した。 臨也は何かを言い淀んでいるように瞳を彷徨わせる。自虐的な笑みを浮かべて眉を寄せた臨也の表情は、3日前の出来事を彷彿とさせた。 今から3日前、俺は臨也にあることを言われた。今までの俺達の関係を思い返すと、まず考えられないような信じ難い言葉だった。 俺にその言葉を伝えたあと、臨也はただ一言「ごめん」とだけ言い残してその場を去った。それは一体何に対する謝罪なのか、一体何を悪いと思っているのか、そもそも俺に伝えた言葉は本当に真実なのか。そのいずれもの答えも聞けぬまま、あの日から臨也に会ったのは今日が初めてだった。 「…手前、結局何がしたいんだ。俺にあんなこと言って、そのまま姿くらましやがったと思ったら遠回しなことして俺のあとコソコソ付け回しやがって」 「………ごめん」 「だから、何に対して謝ってんだよ。…お前が言ったことは、やっぱタチの悪い冗談か何かか?」 「…冗談で済ませたら、どんなに良かったか」 臨也は重たい吐息を吐き出しながらそう呟いた。 …3日前、俺は臨也に「好きなんだ」と告げられた。それは愛の告白と呼ぶにはあまりにも素っ気なく陳腐な言葉で、だがいつものように俺を揄うための手段なのだとしたら狡猾でズル賢い臨也には似つかわしくない率直な言葉だった。 「…でも別に、俺の気持ちをシズちゃんに受け入れてほしいとか思ってるわけじゃないよ。…俺が、勝手に君のことを好きになっちゃっただけなんだから」 「俺の返事を聞く前から、勝手に決めつけんなよ」 「…え、でもシズちゃん俺のことなんて好きじゃないでしょ?」 「……好きじゃねえ」 そう返すと僅かに期待に染まっていた臨也の瞳が落胆したように細められ、「…何なんだよ」と悪態をついた。 そうだ。俺は臨也のことなんて好きじゃない。それどころか殺してやりたいほど憎くて、大嫌いで、その感情は間違っても恋慕なんかじゃ無い。 「…でも、それなら、何でこんなにスッキリしねえんだ?お前の顔なんか死んでも見たくねえはずだったのに、お前がたった数日俺の前に現れなかっただけで、何でこんなにモヤモヤするんだ?みんなに誕生日祝ってもらえて嬉しいはずなのに、何でお前の顔がチラついて離れねえんだ?」 言葉を紡ぐごとに、先程まで歪められていた臨也の表情がだんだんと驚きに染まっていく。 「自分で考えても、もうよく分からねえ。その答えを、俺に教えてくれ」 「…そんなもの、人に教えてもらうものじゃないよ」 「誕生日なんだ。プレゼントとしてそれぐらいくれたっていいだろ」 「…後悔するのは君かもしれないよ。俺にとって都合のいい答えを勝手に捏造して君に押し付けるかもしれない」 臨也が口を開く度に吐き出された白い吐息が不安げにゆらりと揺らめく。 こいつは自分の目的の為なら手段だって選ばない、他人の気持ちなんてものは少しも考えないような奴だ。本当に俺を欺くつもりなら、いちいちこんな言い訳めいた前置きなどしないだろう。 それをわざわざ持ち出すということは、こいつは俺とちゃんと真正面から向き合うつもりでいるということだ。 「…その答えが正しいか間違ってるかぐらいの判断は、自分で付けられる」 そう告げると、臨也がハッと顔を上げた。 そして何かを言おうと何度か口を開いたが、結局僅かに震えるその唇から言葉が零れてくることは無かった。躊躇いがちに視線を彷徨わせたあと、臨也の口元にフと微かな笑みが宿る。 「…それでも、やっぱり俺がシズちゃんの答えを決めつけることは出来ないよ」 この期に及んで何を言っているんだ、と口を挟もうとした俺の言葉は途中で止まる。 俺に注がれた臨也の視線が、驚くほど柔らかいものだったからだ。 「だから、その代わりにもう一度君に言葉を贈るよ。…誕生日プレゼントと呼ぶには、押しつけがましいかもしれないけど」 そう言って臨也から告げられた言葉は、やはり3日前に言われたものと同じ言葉だった。 だが、例え同じ言葉であっても、その真意すら分かっていなかったあの時とはその言葉が持つ意味も与える影響も格段に変わってくる。 臨也から再び告げられたその言葉で、俺の心にモヤモヤと巣食っていた感情の答えが見つかったのかどうかはまだ分からない。 だが吹き荒ぶ真冬の夜風に晒されているにも関わらず、まるで焼かれたかのように頬がジンジンと熱を持っていることだけは確かだった。 |