「記憶喪失?」

仕事が終わり自宅へと帰る道すがら、携帯にかかってきた新羅からの着信に応えると『臨也が大変なんだ』と旧友は珍しく狼狽した様子でそう告げた。
一体何がどう大変なのか全く要領を得なかったが、新羅の所に居るということはつまり何らかの怪我をしているということなのだろう。
感情を荒げることが少ないあの新羅が慌てるなんて、どれほど酷い怪我をしたのか知らないが、丁度仕事も終わったところだ、ノミ蟲の無様な姿でも拝みに行っていつも馬鹿にされている仕返しに腹の底から嘲笑ってやろう。
そんな呑気なことを考えながら静雄が新羅の家へ赴くと、そこに居た臨也には笑い者に出来るような目立った外傷は一切無く、その代わりに新羅に告げられた言葉は静雄を絶望の底へと容赦なく突き落とした。

「…冗談、だろ?」

全身から力が抜けて、手に持っていた携帯がカシャンと床に落ちた。
喉が一気に水分を失いカラカラだ。かさつく喉元からやっとの思いで絞り出した声は、ひどく掠れていた。
問い掛けとも独り言とも取れる静雄の言葉に、新羅は答えるでも無くただ目を伏せ静かに首を横に振った。

「一時的なものかもしれないし、もしかしたら一生戻らないかもしれない。何が原因でこうなってしまったのかも分からないし…、そもそもこういった症例は私の専門じゃないからね」

重苦しい調子で新羅の口から吐き出された『記憶喪失』という言葉が、静雄の頭の中をぐるぐると駆け巡る。いつもの調子に似合わぬ深刻な様子の新羅の声は、静雄の耳を上滑りしていった。
新羅が言っている言葉の意味を、理解することが出来ない。いや、理解したくなかった。
だって、悪い冗談か何かだろう。
こいつが、臨也が、全てを忘れてしまっただなんて。
静雄はソファに寝かされている臨也へと視線を遣る。身体にかけられた薄手の毛布の下で静かに寝息を立てる臨也の顔はいつもと何ら変わり無く、今にでも閉ざされたその瞳が開いていつものように嘲りを含んだ声音で自分の名を呼んできそうだというのに。

「…何で、俺を呼んだんだ」

この息が詰まりそうな空間から、すぐにでも逃げ出したかった。何故、こんなことを自分に知らせたんだ。こんなこと、知りたくなんてなかったのに。
波立つ気持ちを抑え込み、努めて冷静に問いかけたつもりだったというのに、静雄の唇から零れ落ちた声はあまりにも弱々しくて頼りないものだった。思い通りにならない自分の身体に、静雄の苛立ちは募っていく。

「それなんだけど、君にひとつ頼みたいことがあってね」
「…なんだよ」
「臨也を、君のところで預かってくれないかな」

事も無げに投げかけられた新羅の言葉はあまりにも突飛で、だがその内容の割に本人の言葉の調子はとても軽く、つい弾みで肯定の返事をしてしまいそうになるほどだった。
勢いで出かけた言葉を飲み込み、新羅の進言を冷静に噛み砕いてようやく理解した静雄が「は?」とだけ返すと、新羅はソファで眠っている臨也に視線を向けた。

「臨也はお世辞にも『いい奴』とは言えないからね。こいつに恨みを抱いている人間は少なからず居るだろう。そんな人達に今の臨也の状況が知れでもしたら…、どうなるか分かったものじゃない」
「…願ったり叶ったりじゃねえか」

臨也のことを恨んでいる人間なんて、それは勿論掃いて捨てるほど居るだろう。そしてそのカテゴライズの中に静雄自身も入っているのだ。
それだというのに、臨也のことを一番と言っていいほど恨んでいる人間がその張本人を匿うだなんて、とんだ茶番劇じゃないか。
苦々しく吐き捨てられた静雄の言葉すら想定内だったとでも言いたげに肩を竦めると、新羅は口元に笑みを湛えた。

「でも、君がここで臨也を見捨てて、もし本当にこいつが誰かに殺されでもしたら、きっと後悔しちゃうんじゃない?」

何だかんだで君はお人好しだからさ、と微笑った新羅の言葉に、チッと舌を鳴らす。
分かった風な口を利く新羅にも腹が立ったが、そんなことは無いと即座に否定出来ない自分自身にも、静雄は腹が立って仕方が無かった。



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