ある夏の日のこと | ナノ




容赦なく照りつける太陽に晒された身体から、次から次へと汗が吹き出る。
湧き出る汗が肌を流れ落ちる度に拭うことが全く意味の無い行為だと気付き、汗を拭くことすら止めてからはまるでシャワーでも浴びたかのように身体はぐっしょりと濡れている。
だがその身体から香る匂いは、清潔なシャンプーの匂いではなく、つんと鼻を刺激する汗の匂いだ。
水分を吸って重くなった金髪を掻き上げ、濡れたシャツの袖を肩まで捲り上げる。
運動部の奴は毎日こんな思いを味わっているのか、と半ば感心しながらグラウンドから聞こえてくる野球部の掛け声に耳を傾けていると、


「ねえシズちゃん、まーだ終わんないのー?」


突然響いた呑気な声音に、思わず眉間に皺が寄った。
険しい表情で声のしたほうを振り向くと、プールサイドに腰掛けた臨也が膝まで捲り上げたズボンから晒された両足をプールの中に浸し、ゆらゆらと揺らめかせていた。
そうだ、あまりの暑さに朦朧としていてすっかりコイツの存在を忘れていた。
今俺は、普段の素行の悪さと夏休み前の期末考査で取った赤点の罰として生活指導の教師から命じられた、学校のプールの掃除をしている真っ最中だ。
だが今回この罰を命じられたのは俺だけでは無い。
何故か学年トップに近い成績の臨也までもが前回の考査で赤点を取り、俺と同じ罰を言い渡されていたのだ。


「…こんなだだっ広いプールの掃除、ひとりでさっさと終わらせられる訳ねーだろ」
「そこを何とかしてよ、シズちゃん。もう俺、暑くて溶けちゃいそう」
「ならテメエも手伝え」
「俺、汗水流して労働するのって趣味じゃ無いんだよねぇ」


同じ罰を言い渡されているはずなのに、実際に真面目にデッキブラシを振るっているのは俺だけだ。
臨也はと言うと最初っからこんな調子で、ずっとプールサイドに座り込み生温い水の中に足を浸している。
その態度には勿論腹が立つが、ここでごちゃごちゃと文句を言ったところで臨也に口で勝てる筈が無いのだから時間の無駄だ。言葉で伝えるだなんて面倒くせえといつものように暴力に訴えるのも、この暑さでは無駄に体力を消耗するだけだ。
ここは大人しくさっさと掃除を終わらせ、この灼熱地獄から一刻も早く抜け出すことが何よりも先決だ。
忌々しいノミ蟲野郎はその後にでもゆっくりブチ殺せばいいのだから。
不満そうな顔をしてコメカミに血管を浮かべたものの、結局何も言わずにそっぽを向き掃除を再開させた俺を臨也は少々拍子抜けといった風に目をキョトンとさせて見ていたが、やがてその視線は再び揺らめくプールの水面へと移った。

ゴシゴシと俺がデッキブラシで地面を擦り付ける音。
臨也の足がプールの水面を叩くピチャピチャという音。
やかましく鳴り響くセミの声。遠くで聞こえる活気に満ち溢れた野球部の掛け声。

とてもじゃないが静謐だとは言えないBGMを耳にしながら、それでも静かだと感じてしまうのはいつもは鬱陶しいまでに雄弁な臨也が今日は妙に大人しいからだろうか。
どこか居心地の悪さを感じてしまう静寂に包まれながら黙々とモップを振るい続け、ようやくプールサイドの掃除を終えた頃にはじりじりと照り付ける太陽に極限まで体力を奪われ身体はもうヘトヘトだった。
今すぐにでも冷たい水を頭からかぶりたい気持ちでいっぱいだが、掃除はこれで終わりでは無い。
プールサイドが終われば、次は肝心のプールの水槽のほうの清掃作業だ。
25Mの競泳レーンがずらっと並ぶ水槽を眺めると、今までの掃除にかかった時間と体力を思い出しどうしてもげんなりしてしまう。


「シズちゃんも変なとこで真面目だよねえ。こんな古いプールどんだけ気合い入れて掃除したって大して綺麗になんかならないんだから、適当にやりゃあいいのに」
「……水、抜くぞ」


臨也の軽口は無視して、デッキブラシを地面に投げ出すと、コンクリートに当たった木の柄がカランと軽い音を立てた。
今までずっと感じていた疑問がふと脳裏を掠め、排水バルブを開くために管理室へ向けた足を、思わず途中で止める。
いきなり立ち止まった俺に気付いた臨也が、少し不思議そうな瞳で見上げてきたのが視界の端に映った。


「…お前、何で此処に居るんだよ」
「テストで赤点取ったからでしょ?」
「だから、何で赤点なんか取ったんだよ」
「…………」


俺がこんなただの苦行でしかないプール掃除をするハメになったのは、テストで赤点を取ったからだ。
というより、テスト当日にいつものように他校の不良に絡まれ喧嘩をしていたせいでテスト自体受けることが出来なかったのだ。追試も全く同じ理由で受けることが出来なかった。
色々な事情でテストを受けることが出来なかった者や赤点を取った者に対する救済措置である追試すら蹴るハメになったのだ。留年しても仕方がないようにすら思うが、こんなプール掃除程度の罰で済まされてむしろラッキーだったのかもしれない。
いくら来神高校が出来の悪い不良の巣窟だったとしても、テストで赤点を取った上に追試すら落ちるような生徒はなかなか居ない。
そんな馬鹿な奴は自分ぐらいのものだろうと思い込んでいた俺にプール掃除を言い渡した教師の口から出てきた、もう一人のその「馬鹿」の名前を聞いた時、俺は驚きで目を見開いた。


「…先生から聞いた。お前、テストの答案白紙で出したんだろ」
「前日バタバタしてて疲れてたから、試験中つい寝ちゃったんだよね」
「じゃあ、何で追試受けなかったんだよ」
「……何が言いたいの?」


答案を白紙で提出した理由として試験中に寝てしまった、という言い分は少し苦しい気もするがまだ分からないでもない。
だがそういった過ちをしでかしてしまった者のために存在する追試の場に、臨也は今度は姿すら見せなかったのだ。
きっと俺のようにやむを得ない理由があって受けることが出来なかった、という訳では無いだろう。なら何故コイツはここに居るんだ。何故わざと赤点なんか取ったんだ。
むしろ臨也は赤点を取ってたった一人でだだっ広いプール掃除をするハメになった俺を全教科満点の答案でも見せびらかしながら全力で馬鹿にして嘲ってくるような奴じゃないか。
なのに、何故。
何故コイツは、この炎天下の中プール掃除を続ける俺の隣で、黙って水遊びなんかしてるんだ。

考えすぎかもしれない。
そんなことは有り得ないと分かっているのに、一度思いついてしまった馬鹿な考えが頭の中を駆け廻って離れてくれない。
コイツは、臨也は、本当は、


「お前、テストで赤点取ったらプール掃除させられるって知ってたんじゃ…!」


ピンと伸ばされた臨也の人差し指が俺の唇に当てられた。
言いかけた言葉の続きは喉の奥に押し込まれて思わず口をつぐむ。
この暑さでも涼しげな表情をした顔とは裏腹に、唇に当てられた臨也の指は、熱を孕んでしっとりと汗ばんでいた。


「…俺が赤点を取った理由も、追試を受けなかった理由も、今ここに君と居る理由も、」


カキーン、とグラウンドで甲高い音が鳴った後に、遠くで湧き起こる歓声と声援。
ホームランだろうか、と頭の隅でそんなことを思った。


「考えるのは俺の役目だ。シズちゃんは余計なこと、気にしなくていいんだよ」


唇から指が離されたと同時に、肩をポンと軽く押された。
体勢を立て直す余裕も無く、ぐらりと傾いてプールへと落ちていった身体が水面にビシャリと叩き付けられる。
水中に沈んでいく瞬間、上がった水飛沫の向こう側で揺らめく臨也の顔は、少し赤らんでいるように見えた。









ものすごく遠回りでまどろっこしいやり方で静雄と二人きりになろうとする臨也さん。




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