四木教授には愛人が居る。

学生たちの間でまことしやかに語られているその噂話は、静雄も何度か耳にしたことがあった。
だが噂話というものは、退屈な生活を送る学生達の一種の娯楽に過ぎず、そこに真実味や、まして信憑性など欠片もある筈がない。
「相手は一回り以上も歳の離れた高校生だ」「相手が妊娠してしまい離婚を迫られている」「相手はここの学生だ」「いや、実は女ではなく相手は男らしい」など、その噂を耳にする度に肝心の内容はコロコロと変化を見せていたので、静雄は最早そんな話に興味すら抱いていなかった。
暇を持て余したゴシップ好きの学生達を馬鹿らしいとさえ思っていたのだ。
…あの男に、出逢うまでは。



渦中の四木教授の教授室の前で、静雄は途方に暮れていた。
講義のレポートを提出するために訪れたのだが、どうやら先客が居たようで閉ざされた扉の向こうでは小さな物音と話し声が響いている。自分と同じくレポートを提出しにきた学生かもしれないが、もしかすると教授の大事な来客かもしれない。
そうだとすると不用意にノックをして部屋の中に割り込むのは危険だ。
時間があれば出直してもいいが、このレポートの提出期限は今日までだ。「また明日にしよう」という逃げは許されない。
早く帰りたい気持ちは山々だが、仕方がないので先客の用事が終わるのを待つことにし、廊下の壁に背を預けた時だった。
教授室の中でガタリとひと際大きな物音が鳴ったかと思うと、次いで閉ざされていた扉が開く。
扉のすぐ隣で待機していた静雄と、部屋の中から顔を覗かせた若い男の視線が交錯したのは、ほぼ同時だった。
まさか人が居るとは思っていなかったのだろう、廊下で佇んでいる静雄の姿に男は一瞬驚いたように目を丸くしたが、その表情はすぐに綺麗な微笑みに変わる。
細められた瞳に緩く弧を描いた薄い唇は、同じ男であるにも関わらず頬を赤らめてしまうほどの艶っぽさを孕んでおり、静雄は思わず目を逸らす。
男は静雄を眺めながら自らの首元に手をやりそこを小さく撫でると、クスリと笑みを漏らした。

「四木さんに用事なら、中に居るよ」

それだけ告げると男は踵を返し静雄に背を向けた。カツカツと靴底が地面を叩く無機質な音が静かな廊下に響く。
去っていく男のサラサラと揺れる黒髪を眺めながら静雄の心の中には何処か言い知れぬ焦燥感にも似た感情がゆっくりと集積されていく。
あの男は一体誰だろう。初めて見る顔だった。沢山の学生がひしめく広い構内の中で、今まで会った事が無い生徒など数えきれないほど居るだろうし、構内ですれ違う程度ではいちいち顔を覚えていない生徒も勿論居るだろう。
だがあれほどまでに容姿が整った男の顔は一度見たら忘れることは無いだろう。それにあんなモデルのような男が生徒内に居るのならば、もっと構内で騒がれるなり噂になるなりしているはずだ。
それに、万が一さきほどの男が学生だったとして、ただの学生が教授のことを「四木さん」などと砕けた呼称で呼ぶだろうか。
頭をもたげ始めた猜疑心はあるひとつの考えに行き着き、静雄は目を伏せた。

『四木教授には愛人が居る』

学生の間で流れている噂が静雄の脳裏を掠める。
あの男と部屋の中にいる四木教授は、俺が来るまでの間一体何をしていたのだろう。あの男は、何故俺と目が合った時に咄嗟に首元を隠したのだろう。
勿論そうだと決まったわけじゃない。仮に本当にそうだったとしても、自分が口出しをすべき問題などではないことも分かっている。
だが、静雄は元来どちらかというと正義感が強いほうの人間だった。
真っ当な人間である静雄の価値観が告げているのだ。あの男と四木教授の関係は、人としての道徳に背いたものだと。
心の内にもやもやと渦を巻く感情が晴れてくれず、静雄はそれらを振り切るように瞼を閉じる。
真っ暗になった瞼の裏に、先程の男の少し肌蹴た襟元から覗く鎖骨がチラついて、静雄は思わず手元のレポートをぐしゃりと握りしめた。




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