もうしばらくすると3月になるというのに、厳しい寒さは未だに続いている。
今朝などは雪もチラつくほどの寒さで、吐き出した白い吐息でさえこの寒さから逃げるように空中を揺らめいてスッと消えた。
だが今日というこの日に、生徒達が皆ソワソワと浮き足立っているように見えるのは、この寒さのせいでも降りしきる雪のせいでもないだろう。
今時、小学生…いや幼稚園児ですら知っている大イベント、バレンタインデー。その日が今日、2月14日なのだ。
同じ通学路を歩んで行く生徒達の顔は、心なしか緊張気味だ。
想いを寄せていた相手に告白をする者、誰かからチョコレートを貰えるかもしれないと期待に胸を躍らせる者、秘めた想いはそれぞれだろう。
所詮バレンタインだなんてイベントはチョコレート会社の陰謀で、そんなものにまんまと乗せられる奴らは馬鹿らしい、と羨望と妬みを多分に含んだ台詞を吐く者も居る。

そんな風にやっかむ事は無いが、俺もバレンタインだなんてイベントとは無縁な人間の1人である。
なにしろ俺はこの性格と良くない噂のせいで、惚れた腫れたの話以前に女子とまともに会話を交わしたことすら無いほどなのだ。
だがそんなことは俺がこの力に目覚め始めた頃、振り返ると小学生の頃から今までの間ずっとなので言ってしまえば最早慣れっこだ。
今更、それを悲しむことも羨ましがることも今となっては無くなってしまった。最初から、人に好意を寄せられる期待を止めたのだ。
だから今日という日も、俺にとってはいつもと何ら変わらない1日になるはずだった。
普通に登校して、普通に授業を受けて、普通に帰る。それだけのはずだった。

なのに、何だというのだろう。
俺の下駄箱の中に入れられた、綺麗にラッピングされたこの小さな箱は。


「………」


思わず周囲を見渡すが、下駄箱を前に固まっている奴は俺のほかに誰も居なかった。
それというのも、以前ホワイトデーに意味深な文句を書き添えたラブレターが男子生徒全員の下駄箱に入れられるという、悪趣味な悪戯が蔓延したことがあったからで(ちなみにその犯人は言わずもがなあのノミ蟲野郎だ)、今回もその類かと思ったのだがどうやら違うらしい。
試しに悪いとは思いつつも隣の生徒の下駄箱を開けてみたが、そこには少し薄汚れた上履き以外何も入っていなかった。

まさか入れる場所を間違えたのでは、と疑いもしたが、シンプルな水色の包装紙に包まれた小箱にはハート型の可愛らしいメッセージカードが付いており、それにきちんと「平和島静雄様」と自分の名前がご丁寧にフルネームで書かれているのだ。
そしてその下にたった一文、『ずっと、好きでした。』と目を疑うような言葉まで。
だが、どこを探してみても差出人の名前だけは見つからなかった。
一体、誰が俺にこんなものを。
いくら頭を悩ませてみたって、ヒントの無い問題の答えが自分に分かるはずなどない。
ふと顔を上げて見ると、丁度数メートル先から此方へ歩み寄ってくる新羅の姿が見えて、小さな包みを慌てて鞄の中へ押し込んだ。
だが、仄かに紅潮した頬と、バクバクと鳴る心臓の鼓動は抑えることが出来なかった。






「いやあ、バレンタインって感じだねえ」


色めきたっている教室内を見渡して、新羅が相変わらずの第三者視点から他人事のようにぼんやりと言い放った。
教室内でいつもよりきちんと席に着いている男子の率が高い気がするのは、いつ他クラスの生徒から呼び出しを受けても大丈夫なように、という配慮があってのことなのかもしれないが、そんなドッキリイベントが起きることはそうそう無い。
結局、友チョコだとか何だとかで自らが腕を振るった手作りチョコを友達同士でキャッキャと騒ぎながら食べ合わせている女子たちのほうが圧倒的に多い気がするのは、きっと気のせいではないだろう。


「気にしなくても大丈夫だよ、静雄。何だかんだでチョコを貰えない人のほうが圧倒的に多いんだから」
「…別に気にしてねー…っつか、お前もだろうが」
「俺はいいんだよ。俺は愛するセルティただ一人からチョコを貰えたら至上の幸福なんだから!」


結局、新羅には下駄箱に入っていた包みのことを言えなかった。
毎年のことながら、きっと今年もバレンタインだなんてイベントとは縁遠いだろう俺を慰めるような台詞を吐いた新羅の優しさは、余計なお世話でしか無い。
…それに、今年は貰えなかったわけじゃ、ないのだ。
セルティから貰えるものなら何でも嬉しい!例えそれが黒々としたケロイド状のチョコどころか食物なのかさえ怪しいレベルの凶器だったとしても!
と興奮したように熱弁を振るう新羅を横目で見ながら、ソッと鞄を開けてみて中を確認する。そこにはやはり、朝と変わらず小さな箱がちょこんと納まっていた。
やっぱり、夢ではない。


「まあ臨也みたいなのは極めて異例だからね。…あ、ほらまただ」


我に返ったように少し落ち着きを取り戻した新羅が目を遣った先は、あのノミ蟲の席だ。
本人は不在だが、机にぶら下げられた大きな紙袋の中には溢れんばかりのチョコレートが詰め込まれている。
そして今も、他クラスらしい女子が辺りをキョロキョロと見回しながら顔を真っ赤にして、綺麗にラッピングされた箱を臨也の机に押し込んでいった。


「…あんな奴のどこがいいんだ」
「全くもって同感だけど、今日ばかりはその台詞はただの妬みにしか聞こえないよ静雄」
「…そんなんじゃねえ」


臨也は人当たりがいい。というよりかは外面だけが無駄にいい。
臨也の内面の腹黒さと腐った性根を知らず、その人当たりの良さだけに騙されて奴を好きになってしまう女は数えきれないほど居るのだろう。アイツはなまじ顔がいいから、余計だ。
その顔すらも、俺にしてみればただの腐ったノミ蟲にしか見えないが、あいつを見てキャアキャア黄色い声を上げている女子達からはきっと違う風に見えているのだろう。


「…あんな奴の、どこがいいんだ」


噛み締めるようにもう一度言い捨てた言葉に、新羅も今度は何も突っ込みを入れてこなかった。







陽が落ちかけて夕焼けに赤く彩られた教室に響くのは、俺がプリントにペンを走らせる乾いた音だけだ。
結局、チョコの差出人は現れなかった。いつか名乗り出てくれるかもしれないという淡い期待は脆くも崩れ去ってしまったのだ。
俺は、どうすればいいのだろう。
人から好意を寄せられることなんて、まして想いを伝えられることなんて全く免疫が無いのだ。しかもその相手すら分からないというのに、押し付けられた想いをどう処理すればいいのか、ほとほと困り果ててしまう。
ハア、と教室の中でひとり重苦しいため息を吐き出した所で閉ざされていた扉がガラリと開け放たれた。


「…あれ、シズちゃんまだ居たの」


そんな言葉と共に教室へ足を踏み入れた人物に、思わず顔を顰めた。
臨也の右手にはチョコレートと思しき包みが握られており、それを自分の机にぶら下げられた紙袋の中にまるでゴミか何かのようにぞんざいな扱いで投げ入れた。
その仕草に、更に俺の眉間に皺が寄る。


「ああ、補習か。そういやこないだのテストで赤点とってたもんね、可哀想にねえ」


まるで哀れんでいない、むしろ楽しんでいるかのような口ぶりで話しながら臨也は肩を揺らす。
そうして此方へ歩み寄ってきたかと思うと、俺の前の席に腰掛けた。


「…………んだよ」
「ん?可哀想なシズちゃんに俺が勉強でも教えてあげようかと思って」
「いらねえ、余計なことすんな」
「そうやって強がっていられる状況でもないと思うけど?」


まるでこちらのことなど全てお見通しだとでも言いたげに、ニヤニヤと口を歪める臨也の言葉は耳に痛い。
確かに補習と称して与えられたプリントは俺にとってはかなり難しく、もうかれこれ2時間近く奮闘しているのだ。
だがこのノミ蟲に自ら助けを乞うなんてことは死んでもしたくない。
「…勝手にしろ」と吐き捨てた言葉は、俺にしては及第点だろう。それでも臨也は「素直じゃないなあ」と笑いながら鞄からペンケースを取りだした。


さすが学年成績10番以内に入っているだけのことはあり、認めたくないが臨也の教え方はかなり上手かった。
どうしても理解出来ずまるで異国の言葉か何かのように思えた問題文と数式が、まるで魔法にかけられたかのようにスラスラと頭に入ってくる。
いよいよ最後の問題に取りかかろうという時に、急に臨也の手が止まった。
訝しんで俯かせていた顔を上げると、臨也は何かを考え込むかのように床に視線を落としていた。


「…シズちゃんって、甘いもの好きだったよね」
「だったら何だ」
「ご覧の通り、俺チョコ貰いすぎちゃってね。持って帰るの大変だから半分いらない?」
「はあ?…いらねえよ」


勉強を教えてもらったことにより少し上がりかけていた臨也に対する好感度が、その一言で再び地に落ちた。
昼間に見た、真っ赤な顔で臨也の机にチョコを押し込んでいった女子の顔を思い出して、思わず眉間に皺が寄る。
こいつが腐った野郎だと思うのはこういう時だ。…こいつは、人の気持ちを何だとおもっていやがるんだ。


「相手の気持ち考えろよ。…それは、みんながお前のために用意してくれたモンだろ」
「…ふーん、シズちゃんって意外と真面目なんだ」


つまらなさそうに机に右ひじを付き、空いた左手で臨也はくるくるとシャーペンを回して見せる。


「こんなスーパーで売られてるたかだか500円程度のチョコに込められた想いなんて、たかが知れてると思うけどね。かと言って手作りは色々怖くてちょっと食べる気しないけど」
「…金額の問題じゃねぇだろ、そういうのは」
「悪いけどシズちゃんが何言ったって、ただのひがみにしか聞こえないよ。それとも、シズちゃんも誰かからチョコ貰ったりした?」


昼間の新羅と同じことを言われ、そして次いで投げかけられた不意の質問に息が止まった。
鞄の中に納められた水色の小箱が脳裏をよぎる。思わず視線が泳いだ。


「…てめえには、関係ねえだろ」
「………貰ったんだ?」


臨也は意外だ、とでも言いたげに目を丸くした。
この言い方は失敗だった。肯定はしていないが、否定もしなかったのだからそれは貰ったことを認めるのと同じだ。
貰っていない、ときっぱり言ってしまえば良かったのかもしれない。
だが相手がいくらノミ蟲だといっても、嘘をつくのは憚られたし、何より貰っていないと嘘をついてしまうと俺なんかにチョコをくれた相手の気持ちを踏みにじってしまう気がしたのだ。


「…じゃあさ、シズちゃんはどうなの?そのチョコをくれた子の気持ちに応えるの?」
「…関係ねえだろ、お前には」
「人に偉そうなこと言っといて、自分は逃げるんだ?俺のことどうこう言えないくらい卑怯者だね、シズちゃん!」
「………相手、知らねえんだよ。名前も書いてなかったし、誰かすら分かんねえんだ」
「じゃあ相手が誰か分かったら、その子の気持ち受け入れてあげるの?」


俺は今まで相手が誰なのかということしか考えていなかったが、もし本当にその相手が分かったとしたら、俺はどうするだろう。
臨也にそう聞かれてみて初めて、俺はその後のことを考えた。
初めて他人から寄せられた好意に俺は確かに高揚している。顔も名前も知らぬ相手に恋に似た感情を抱き始めているのも確かだ。
どんな人物か分からない、だが俺なんかのことを好きになってくれるのだからきっと素敵な人なのだろう、と勝手な妄想に囚われてしまってもいる。
もし相手が分かったら、俺は…そう、きっと彼女のことを受け入れるだろう。
「…ああ」と小さく頷くと、臨也は満足そうに目を細めた。


「ところでシズちゃん、トリュフチョコは好き?」
「?…ああ」
「そう、それは良かった」
「……なんだよ?」


いきなり突拍子もない質問を投げかけられ、頭の上に疑問符を飛ばすが臨也は俺の問いには答えない。
そして再びシャーペンを手に取ると、ノートにさらさらと何かを書き始めた。


「おい、臨也」
「そんなことよりシズちゃんが貰ったチョコにメッセージカードが付いてなかった?」
「なっ、てめっ…何でそんなこと知って…!」
「そのカードに書いてあった字、どこかで見覚えない?」
「……あ?」


可愛らしいハート型のカードに書いてあった、少し丸っこい筆跡が頭の中にフラッシュバックする。
首を捻らせて考え込むこと数秒。俺はようやく全てを理解した。心臓の音が五月蝿いくらいにバクバクと鳴り響く。
顔を上げると目の前にはニコリと微笑む臨也の顔。
とんとん、とノートを指で軽く叩かれた音にびくりと身体が反応した。
臨也の指に指し示されたノートには、俺が貰ったメッセージカードに書いてあったものとまるで同じ筆跡で全く同じメッセージが書かれていた。
『ずっと、好きでした。』


「…俺の気持ち、受け入れてくれるんだよね?」


ゆるりと臨也の唇が弧を描く。
笑んだ臨也の顔が真っ赤に染まっているのは、教室に差し込む夕陽のせいか、それともまた別の要因か。
どちらにせよ、きっと俺も同じような顔をしているのだろうと、そう思った。








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