『今日一番アンラッキーなのは、水瓶座のあなた!運気が下がり気味で、何をやっても上手くいかない日。こんな日は家で大人しくしているか、気の合う友人とゆっくり過ごすのがいいかも知れません。ラッキーアイテムは、シルバーリング!』 今日は朝からツイていない。 電池切れで止まっていた目覚まし時計のせいで寝坊するし、慌てて飛び起きたらローテーブルに脛を強打するし、飲もうと思って買い置きしていた牛乳は賞味期限が切れていた。 そして極め付けが、家を出る直前に消そうとしたテレビでたまたまやっていた占いだ。 若い女子アナが大袈裟に作った暗いトーンの声色で言い放った『何をやっても上手くいかない日』という言葉がぐるぐると頭の中を反芻する。 それと同時に、何もこんな日に、という思いが頭のどこか片隅で駆け巡った。 何故朝っぱらからこんな気持ちにならなければいけないんだ。 鬱々とした感情が腹の底で燻り始めたが、いくら嘆いてみたって占いの結果は覆りはしないし、自分が今仕事に遅刻しかけているという事実も変わりはしない。 むしゃくしゃとした気持ちをリモコンに込めて力強くボタンを押すと、ぶつりと音を立ててテレビ画面が真っ暗な闇に包まれた。 履き慣れた革靴をひっかけ玄関を出ようとすると、閉める時に足が縺れドアの隙間に靴が巻き込まれてしまった。 思わず低い叫び声が喉から漏れ、バランスを崩した身体は玄関を出た先のコンクリートの地面に叩き付けられる。 …これはいよいよ厄日らしい。 転げた反動で脱げてしまいドアの隙間に挟まれ取り残された、くたびれた革靴の情けない姿すら、こんな自分を嘲笑っているかのようでますます気が重くなった。 誕生日なんて、なにも特別な日ではない。 そりゃあ幼い頃は、誕生日というものを心待ちにしていた時期が勿論あるにはあった。 祝ってくれる友人は数えるほどしか、…いやむしろ数えられるほども居なかったが、家族だけは毎年暖かく祝ってくれたし、この力のせいで負い目を感じ普段から自己を主張することが殆ど無かった俺が、唯一少しだけ我がままに振る舞える日が誕生日だった。 実家を出た今でも、誕生日になると母親は電話を入れてくれるし、金を持て余した弟から送られてくるプレゼントは年々豪華になっていく一方だ。 自制を知らなかった子供の頃に比べ、今は理解してくれる友人や頼りになる先輩も出来た。 だが流石に25年も同じことを繰り返していると、次第にその感動は薄れゆき、特別な日も特別では無くなる。 今日は1月28日。俺の25回目の誕生日だが、特にこれといった感慨なんてものはやはり無いに等しかった。 ようやく事務所へと辿り着き、入り口の扉を開ける。 中に入り、忙しなくパソコンのキーボードを叩きながら電話応対をしている事務員のお姉さんの横を通り抜け、奥の部屋へと向かうと携帯でメールチェックをしながら煙草をふかしているトムさんが居た。 声をかけると、おーだかんーだか判別が付けづらい生返事を返しながら視線を上げたトムさんが、俺の姿を視界に収めた途端に目を見開いた。 「静雄お前っ…、なんつー格好してんだよ!?」 トムさんが朝っぱらから驚愕の声を上げるほどの今の俺の格好はというと、頭のてっぺんからつま先までまるで豪雨に降られでもしたかのようにずぶ濡れである。 ちなみに今日の天気は目も眩むほどの快晴で、一粒の雨さえ降っていない。 もちろん、まるで未来の某ネコ型ロボットの不思議道具のような小さな雨雲が俺の頭の上を追いかけ回していたわけでもない。 これは、事務所に来る途中に通ったアパートの前で、突然上空から降ってきたジョウロの水が全身に万遍なく降りかかったせいだ。 ちなみに犯人はそのアパートの2階の部屋に住む女性で、ベランダに置いてある観葉植物に水をやっている最中に手が滑ってしまいジョウロを取り落としてしまったのだという。 それが、下を歩いていた俺に降りかかったわけなのだが、最早笑うしかないその絶妙のタイミングは下手なコントのようだ。 「…事情は分かったけどよ、しかしお前それよくキレなかったな」 「別に俺だって誰彼構わずキレるわけじゃないッスよ。悪気があったわけじゃねーし…、それにわざわざ下まで降りてきて土下座する勢いで謝られたら、怒る気も失せます」 勿論、彼女がそこまで必死に謝罪してきたのは俺が平和島静雄だと分かっていたからだろうが、何にせよ素直に頭を下げている相手に向かって理不尽に怒りをぶつけるほど愚かではないし、それなりの節度は持っているつもりだ。 勿論この寒空の下、濡れた服で冷たい風に身を晒されるはめになったことに少なからず怒りを覚えはしたが。 「まあ、なんつーか…災難だったな。お前、今日折角誕生日なのになぁ」 「いいスよ、別に。今日の占いでも最下位だったし…何か悪い予感はしてたんス」 「はあ、占い?何だよ静雄、そんなもん信じてんのか?」 「別に信じてるわけじゃないッスけど…、やっぱいい気はしないじゃないスか」 全ての災厄の始まりは、朝のあの占いからだ。 占いなんて所詮は当たり障りのないことを言っているばかりで、結局は自分の気の持ちようだということは分かっている。 何か良く無いことが起きる度、もしかすると占いのせいかもしれないと疑ってしまうこのネガティブな考えが、更なる厄を呼び込むことになるのかもしれないということも分かっている。 だがいつもと変わらない日常が始まると盲信的に思っている朝に、指をさされて「今日は悪い日になる」と告げられれば誰だって気にしてしまう。それが人間というものだろう。 「仕方ねえなあ。ツイてない静雄くんに、今日は優しいトムさんが昼飯を奢ってやろう!」 「え、マジすか」 「おう、マジマジ。選択権も与えちゃうぜ〜、マックかロッテか吉牛な」 「………せめて、モスにしませんか」 全て500円のワンコインで済ますことが出来そうなそのラインナップに辟易するも、お互い給料日前の身だ。 先輩とはいっても、仕事内容から言って恐らく支給されている給料にそう開きは無いだろう相手にあまり多くを求めるのも悪い気がしたので、控えめに抗議をすると先輩は眉を下げてハハハと笑った。 午後7時。仕事が終わり、帰路につく。 折角誕生日なのだから、と早めに切り上げてくれた先輩の心遣いに感謝すべきなのか、早く帰らされたところで何も予定など無い自分を嘆くべきなのか。 誰も居ない家にまっすぐ帰ることも憚られて、少しゆっくりしていこうと身近なガードレールに凭れて煙草に火を付けようとした瞬間。 嫌な匂いが鼻を掠めた。 100円ライターのオイルの匂いでは無い。指に挟んだ煙草のニコチンの匂いでも無い。どうしようもなく不快で、だが嗅ぎ慣れてしまったこの匂いは間違いなく。 「…ッ、臨也ァッ……!」 振り返るといつもの黒いコートを身に纏ったあいつが居た。 距離にして恐らく2メートル。手を伸ばせば届きそうなほどの距離に、人の神経を逆なでるいつものあの厭味な笑みを口元に湛えたアイツがただ突っ立っていた。 いつもなら間髪入れずに嫌味のひとつでも飛んできそうなものだが、何故かそのような雰囲気は無く、臨也は固く口を閉ざし感情の読み取れない笑みを浮かべたままただその場に立っていた。 無言の睨みあいが続くばかりで、その静けさから折原臨也と平和島静雄が対面していることに気付く様子も無い池袋の住民達は、何事も無く俺達の隣を通り過ぎて行く。 何を考えているのか分からない。一体どういうつもりだ。 頭の中に浮かんでくるのは不可解な疑問符ばかりだが、臨也が次にどんな行動を起こしたとしても機敏に反応出来るよう、ガードレールに置いた手に力を込めた瞬間だった。 口元の笑みを一層濃くした臨也は、ひらりとコートを翻しながら踵を返して走り出した。 「…ッ、おい!」 今日の臨也は様子がおかしい。 何故だかいつもの嫌な感じがしなかったし、此方に手を出してくる様子も無かった。 このまま大人しく新宿に帰るのだとしたら、見逃してやってもいいかとも思えたが、臨也が駆けて行ったのは駅とはまるっきり反対の方角だった。 「…チッ!」 思わず、舌打ちをひとつ。 指に挟んでいた煙草を投げ捨てると、弾かれたように俺は地面を蹴った。 まだ火を付けてさえいなかった煙草を勿体ないとは思うものの、ご丁寧に箱に戻していたらその間にアイツを見失ってしまう。 後で絶対に煙草代を弁償させてやると理不尽な誓いを心に決め、黒い背中を懸命に追い掛けた。 何か様子がおかしい。 俺がそれに気付いたのは、終わりの見えない鬼ごっこが約1時間ほど続いた頃だった。 通常ならば、もうとっくに俺が臨也をぶん殴っているか、臨也が上手く俺を撒いている頃合いだ。 だがこの1時間の間、俺の前を走る臨也と後ろから追いかける俺の距離は一向に縮まらないし広がりもしない。 ほぼ全力疾走に近い追い掛け合いを長時間続けているのだ。いい加減、体力も限界である。それは臨也にしても同じようで、確実に走るペースが落ちてきていた。 この不毛な鬼ごっこをいい加減終わらせるために俺が走る速度を速めると、それを感じた臨也も慌てて足を動かすペースを上げる。 これは既に追いかけ合いでは無くなっている。 俺はようやくその事に気付いた。 臨也の意図など分かるはずもないし分かりたくもないが、コイツは俺から逃げているわけでは無く、俺を何処かへ誘導しているのだ。 決して捕まることのない速度で。だが見失われない程度のペースで。 …ふざけたことをしやがる。 今さら特別な日だと感じないとは言っても、やはり折角の誕生日の貴重な時間をこんなノミ蟲野郎との鬼ごっこに費やすことになるなんて、あまりにも悲劇だ。 思わずチッと漏れた舌打ちは、風に流され虚空へ消えた。 臨也の真意の分からぬ企みに乗せられていると分かってはいても、それに気付いてしまった以上はこいつを一発ぶん殴ってやらないと気が済まない。 どういうつもりか知らないが、このノミ蟲の首根っこを引っ掴むまで、地の果てまでも追い掛け続けてやる。 揺るぎない決意を新たにすると、地面を踏みしめる足の力も些か強くなった気がした。 長時間走り続け、人通りの多い繁華街から移動し続けた現在地は、人もまばらで臨也の背中を追いやすい。 だが、ただ追い掛け続けるだけでは埒が明かない。 そろそろ勝負をかけるか、とコートを翻しながら駆け抜ける黒い背中に狙いを定めたところで、その目標物がふいに狭い路地の角を曲がった。 慌てて追いかけると、路地の先は行き止まり。 進路を断たれた臨也は、コートのポケットに手を突っ込み、ただぼんやりとその場に突っ立っていた。 「…ッ、袋のっ、鼠だなぁっ…!臨也くんよぉっ…!」 決め台詞は格好よくキメたいものだが、こうも激しい運動をした後ではそれも儘ならない。 台詞の合間に絶え絶えに入ってしまう荒い息遣いに辟易しながらも、してやったりといった風の笑みを口元に湛えた俺を、臨也はゆっくりと振り返った。 その臨也の口元にもまた、笑みが浮かんでいた。 何か嫌な予感がして身構えると、臨也がポケットに突っこんでいた手を外に出した。だがその裸の手には何も握られていない。 てっきり隙を付いてナイフで切りつけられるものと思い込んでいた俺は、その予想外の出来事に暫し呆然としてしまった。 故に、臨也が素早くこちらに踏み込んできたことに対し、反応がワンテンポ遅れてしまった。 慌てて身体を捻ろうとするも、遅かった。臨也に胸倉を掴まれ、その次に襲いくる衝撃に備えて固く目を閉じる。 …が、予想した衝撃は待てど暮らせど一向にこなかった。俺を襲ったのは殴られる鈍痛でもナイフで切りつけられる痛みでも無かった。 代わりに与えられたのは、唇に押し付けられた温もり。それだけだった。 「…シズちゃんに、誕生日プレゼントだよ」 「………これのどこがプレゼントだ」 最後にペロリと唇を舐められてから、離れていく温もりを感じつつふざけたことをふざけたツラでのたまうノミ蟲に、嫌悪を露わにした表情で抗議の言葉を投げつける。 突然、唇を奪われたのはこちらのほうだ。むしろプレゼントをやったと言えるのは俺のほうじゃないか。 すると臨也は「やれやれ」とでも言いたげに、わざと芝居がかった調子で肩を竦めてみせた。 「シズちゃん、今日の星占い見てないの?」 「はあ?」 「水瓶座は本日の運勢、最下位。それに加えて牡牛座は本日の運勢第1位。12個もある星座のうち一番ラッキーな牡牛座の強運を持つ俺が、哀れで不幸な星を持つシズちゃんに、幸運を分けてあげたんじゃないか」 充分プレゼントになり得るだろう? と相変わらずの人を見下したような笑みを湛える臨也の顔は腹立たしいことこの上ない。 「…うっぜえ」と一言だけ、蔑みの言葉を投げかけてやった。 こんなほぼ嫌がらせに近いプレゼントを贈る為に、わざわざこの寒空の下1時間近くも走り回されたのかと思うと腹が立つどころの話ではなく池袋中の標識を引っこ抜いて回りたいほどの衝動に駆られるが、どれだけ人の心情の機微に疎い俺でも、流石にここまできたら漸く事態が飲み込めてくる。 1時間近く走り回された理由も、臨也が右半身を庇うように走っていた理由も、少し不自然に膨らんだコートの右ポケットに何かが隠されていることも、その中身も。 「折角の誕生日にツイてないよねえ、君も。まあ運からも世間からも見放されているシズちゃんには、お似合いかもしれないけど」 いつもなら一瞬で理性を飛ばすことになる、臨也の口から吐き出される憎まれ口にも不思議と腹が立たないのは、コイツの本当の思惑に気付いてしまったからだろう。 コートの右ポケットに突っ込んだ臨也の手がまるで何かを躊躇うようにもぞもぞと動いた。 星占いに絡めた押し付けがましいキスなんかじゃない、コイツが本当に俺に渡したいものはきっとそのポケットの中に潜んでいる。 余裕のあるふりを装いながらも、恐らく脳内では現在進行形でポケットの中身を渡すべきか渡さざるべきか会議が繰り広げられているのだろう臨也の表情は、どこかぎこちない。 隠しているつもりなのだろうそのプレゼントの中身を指摘してやると、コイツは驚くだろうか。 だが池袋を離れこんな人通りの少ない場所に誘導してこないと行動を起こすことが出来ない、小心者のノミ蟲にはお似合いだ。 「なあ、臨也くんよぉ」 水瓶座の俺の、今日のラッキーアイテムは何だっけ。 |