見慣れた教室に、平和島静雄の姿は無かった。
午前の授業が終わった後の昼休み。授業の合間の短い休憩時間とは違い、纏まった休憩時間が確保されているこの時間帯は、昼食をとる生徒や他愛ない世間話に花を咲かせる生徒達で教室の中はワイワイと賑わっている。
騒がしい空気を纏う教室内の、窓際の列の一番後ろが、シズちゃんの席だった。
教室内の隅の隅。騒がしいクラスからまるで断絶されたかのようなその席は、化け物の彼にお似合いだと思っていたが当の本人が居ないのだとすると意味が無い。

いつもは机に突っ伏して寝ているか、つまらなそうにボンヤリと窓の外を眺めているか2つに1つだったというのに、どうしたというのだろう。
シズちゃんと同じクラスである新羅によると、「学校には来てたよ」とのことだった。「授業も普通に受けてたし、ていうかさっきまで席に居たと思うけど」とも言っていた。
となると、彼は昼休みになると同時に早々と教室を抜け出して何処かへ行ってしまったということになる。


「そういやここ最近、昼休みになる度にどっか行ってる気がするなあ。まあ静雄くんだって暇じゃないんだから、そう君にばっか構ってやれないよ」
「いや、暇だろアイツは。誰からも相手にされない化け物が退屈しないように、構ってやってるのは俺のほうだよ」
「傍迷惑な親切の押し売りだねぇ」


誤解されていないとは思うが一応念の為、別にシズちゃんが居ようが居まいがどうでもいいんだけどさ、と言っておくと新羅はひたすら興味無さそうに「へえ」と一言だけ呟いた。
呼吸のついでのように新羅の口から零れたその一言は、吐息とも返事とも取れるような、曖昧なものだった。
最早コイツの意識は俺には向いておらず、その視線は一心に手元の携帯へと注がれている。
チラリと盗み見てみると、背筋に寒気が走るような甘い文句と愛を囁くには少々不釣り合いな小難しい四字熟語が並べ立てられたメール画面が飛び込んできて、思わず顔を顰める。
恐らくコイツが入れ込んでいる都市伝説ライダーにでも送りつけるつもりなのだろう。…全く、どいつもこいつも。

最早会話が成り立たなくなった新羅には何も言わずに背を向けて教室を後にした。
自分のクラスへと戻る道すがら、一歩足を踏み出すごとに心にモヤモヤとした感情が降り積もって行く。
一秒ごとに深くなるその気持ちに名前を付けるなら、恐らく「憤懣」や「苛立ち」。
とにかく、自分の掌の上で踊らされていればいいだけのはずのあの化け物が俺の手から離れて俺の知らない所で俺の知らない行動を取っているその事実が、たまらなく不快で面白くなかった。






翌日、4限終了のチャイムが鳴る少し前に俺は教室を抜け出した。
向かった先は新羅とアイツが居るクラス。到着すると同時に、廊下中に授業終了のチャイムが鳴り渡った。
そしてその後すぐに教室から出てきたのは、くすんだ金髪頭。数メートルと離れていない場所に居たにも関わらず、シズちゃんは俺の存在に気付く様子も無く長い脚を忙しなく動かしてさっさと何処かへ行ってしまった。
思わず眉間に皺が寄るが、今はこんなところで不機嫌になっている場合じゃない。
気付かれないよう一定の距離を保ちながら、急いでシズちゃんの後を追いかけると、彼が向かった先は体育館の裏だった。

こんな人気の無い所に一人でやって来るなんて、また喧嘩か何かだろうか。
一昔前の学園ドラマじゃあるまいし、今時驚くほど古臭い場所チョイスだと思わないでも無いが、もしそうだったとしたら影で盛大に笑ってやろう。
そう思いながら彼の動向を見守っていたが、当の本人は辺りをキョロキョロと見まわしながら何処か浮ついた様子だ。
何だか様子がおかしい。少なくとも今から大乱闘を起こそうかという人間の態度とは異なる雰囲気に、俺が訝しんで眉を寄せた頃、この場には不釣り合いな甲高い鳴き声が響いた。
そして、それと同時に木の影から姿を現したのは、小さな三毛猫だった。
毛並みの悪さと、首輪をしていないところを見ると、恐らく野良猫だろう。
その猫が、恐れる様子も無くシズちゃんの足元へと擦り寄ると、シズちゃんは慣れた様子で猫の頭を撫でる。
体育倉庫の影から、猫用のドライフードと発泡スチロールトレイを取り出すと、彼はトレイに餌をぶち撒き始めた。
一定の量を入れ終わり彼が手を止めると、それを合図にしたかのように猫がニャアと一声鳴いた後、トレイに顔を突っ込みカリカリと咀嚼音を立てながら食事を始める。
その様子を黙って眺めるシズちゃんの顔を盗み見てみると、思わず表情が歪んだ。あろうことか彼は微笑んでいたのだ。今まで見た事が無いような穏やかな表情で、彼は微笑んでいたのだ。込み上げてきた吐き気に、思わず口元を掌で押さえる。

平和島静雄という男は、元来表情が少ない人間だ。「怒り」の感情以外に、彼のその能面のような表情を壊せるものなど無いのだと思っていた。
彼のクラスメイト、そして恐らく彼が唯一友達だと言える人物なのであろう岸谷新羅の前でも、それは一緒だった。その証拠に俺は彼の笑顔というものを見た事が無い。
別に見たいとも思わなかったのに、まさかこんな所で、こんな形でそれを目にしてしまうことになるなんて。
…しかも、その相手はあんな何の力も持ち得ないただのちっぽけな子猫だ。


「…化け物がペットを飼うなんて、実に滑稽で面白いねぇ」


そっと呟いてみた言葉とは裏腹に、俺は憮然とした表情を浮かべていただろう。そのことが自分でも嫌になるほどよく分かった。






その日から、昼休みになる度に猫に餌をやるため体育館裏へ足を運ぶシズちゃんの後を尾けることは、俺の日課になってしまった。
そして猫に対し気持ちの悪い笑みを浮かべる彼の表情を見て、吐き気を催しながら教室へと戻る。
俺は何故こんなことをしているのだろう。
そんな問いかけは今まで何度だってしてきた。だが毎回、明確な答えを見つけることが出来なかった。
自分の事なのに自分で理解できないなんて腹が立つが、彼を追いかけることはいつまで経っても止められなかった。

ある日のことだ。
いつものように昼休みに教室を抜け出したシズちゃんの後を追って、体育館裏へと足を運んだ。
そこにはいつも通り彼のひょろりと長い後ろ姿があったのだが、その様子がどうにもおかしかった。
いつものように辺りを見渡しながら猫を探す様子も無く、ただ呆然と立ち尽くしている。その細い肩が小刻みに震えている気がして、一体どうしたものかと一歩踏み出してみてようやく気付いた。
彼の足元に、小さな猫の死体が転がっていることに。


「……シズちゃん」


思わず声をかけてしまった。
肩をビクリと震わせた彼が、此方を振り向く。その瞳に涙は溜まっておらず、頬にも跡は残っていなかった。
てっきり泣いているものだと思ったから、予想が外れたことに安堵とも無念とも言い難い気持ちが胸に広がる。
声をかけたはいいが、何を言えばいいのだろう。そもそも彼は俺が此処に居る事に疑問を抱いてはいないだろうか。
頭を悩ませている俺を余所に、目線を落としたシズちゃんがぽつりと言葉を漏らした。


「…こいつ、いつのまにか此処に住みついてたみたいなんだ」
「…そう」
「たまたま見つけて、餌やったら懐いてくれて…それで、ずっと、ここで面倒みてた」


知ってるよ。
ぽつぽつと語り出したシズちゃんの言葉を聞きながら、俺はそっと心中でそう漏らした。
だが今更、毎日君の後を尾けていたんだよ、なんて告白をしたところで無意味だろう。
泡を吹いてピクリとも動かない猫の死体の傍らには、死の直前まで口にしていたのだろう餌の残骸が撒き散らかされていた。
猫が口に含んだものもあるのだろう、唾液で少し溶けたものも混ざっているその餌は、皮肉なことにシズちゃんがいつもこの子猫に与えていたものと同じだった。


「…餌に、毒を混ぜられたみたいだね」


散らばるドライフードの欠片をひと粒つまみあげて、そう言った。
誰かが面白半分にやったことかもしれないが、ひどいことをする奴が居るものだ、と続けるとシズちゃんは苦々しげに顔を歪ませる。
暫く無言の時間が続いた後、彼は何を思ったのかいきなり俺に背を向けた後、歩き始めてしまった。


「ちょっと、シズちゃん何処行くの」
「…スコップ、借りてくる」
「はあ?そんなもの、どうする…」


そこまで言って気がついた。
いきなり素っ頓狂な事を言い出す彼に、ショックで頭がおかしくなったのかとも思ったがそれは違う。彼は至ってまともだった。
だが、あの平和島静雄がそんなことを言い出すなんて、一体誰が予想出来ただろうか。


「まさかとは思うけどさ…シズちゃん、その猫のお墓でも作るつもり?」


口を歪めた俺を見つめるシズちゃんは、何も言わない。だが無言は肯定と同意だ。
ハッ、と思わず笑いがこぼれた。
とんだお笑い草じゃないか!あの破壊神と呼ぶに相応しい平和島静雄がちっぽけな子猫を懐柔していることですら既に可笑しかったのに、今度は死体を弔おうだなんて!こいつは傑作だ!
愉快そうに口を歪める俺を感情の読めない冷めた瞳で見つめるシズちゃんは、相変わらず何も言わなかった。
…やめろ、そんな眼で俺を見るなよ。折原臨也をその視界に収めておきながら、そんな穏やかな表情を浮かべる平和島静雄なんて何の価値も無い。
早くいつものように、怒りの炎をその瞳に灯してみせろ。


「…シズちゃんってさあ、もしかしてあの世とか信じちゃってる系の人?」
「………」
「俺はね、あの世とか天国と地獄とかそういうの一切無いと思ってる。死んだらそこで全てが終わり。何も考えられなくなるし、そもそも考える必要も無くなる」
「……何が言いてえんだよ」
「つまりさ、自分の死体がどうされようと死んだ本人には何の関係も無い話なんだよ。まるでゴミのように放り出されたって、当の本人はもう死んでいるんだからそれを悲しむことも出来ない。だから、死体を弔ったり墓を作ったりっていうのはさ、結局残された人間のエゴなんだよ。自己中心的で身勝手な考えだ。そんな自分勝手な自己陶酔のダシに使われることのほうが、死んだ者にとってよっぽど可哀想なことなんじゃないかな?」


まるで追い打ちをかけるかのように捲し立てた俺の言葉を黙って聞いた後、シズちゃんは面倒くさそうに頭を掻いた。
そして地面に横たわる猫の死体に視線を向けた後、うんざりとしたように溜め息を吐いてみせた。


「…小難しいことはよく分かんねえし、手前が今ベラベラ言ってたこともほとんど理解出来ねえけどよ、」


落とされた視線を再び俺に向けた後、彼はハッキリとした口調でこう言った。


「死んだやつが、天国で笑って幸せに暮らしててほしいって願うことは、そんなに悪いことかよ」


真っ直ぐ俺を見つめて言い放たれた彼の言葉に、心臓を貫かれたような気がした。
何で君は、そんなことを言うんだ。何で、いつものように怒らないんだ。
俺は今、全力で君を馬鹿にしたんだ。可愛がっていた子猫を誰とも分からぬ奴に無残に殺されて、その死体を埋めてやろうという普通の人間が抱くはずの真っ当な感情を、コケにしたんだ。なのに、何故君は怒らない。

動物実験がしたいなんて危なげなことを言っていた科学部の奴に、体育館裏に住みついている野良猫の存在を教えたのは俺だ。そいつに餌に毒物を混ぜてみてはどうかと提案し、ヒ素を手渡したのも俺だ。
そのことを言えば、君は怒りの感情を露わにしてくれるのか。いつものように、燃え盛る炎を灯した瞳で俺のことを見てくれるのか。


「…ッ、シズちゃん!」


歩き去ろうとしているシズちゃんを、再び呼び止める。
まだ何か用か、とでも言いたげな気だるい様子で彼が振り返った。


「言っとくけどな、俺は今テメエと喧嘩とかする気分じゃねえからな」
「…そうじゃないよ、そうじゃなくて」
「…じゃあ、何だよ」


訝しげに眉を寄せた彼の顔を見て、二,三度口を動かしたが結局何も伝えることは出来なかった。
躊躇っていると、思わず俺の意思に反して、言うべきではない言葉が零れ落ちてきそうになって、慌てて口を閉じる。

俺が死んでも、君はそんな風に俺を弔ってくれるの?

なんて、それこそお笑い草じゃないか。あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、とてもじゃないが笑えやしない。
不思議そうに顔を歪めたままの彼の顔を見ることが出来ず、目を反らして「何でもない」と言う。
飲み込んだ唾液は、とても苦くて思わず顔を顰めた。









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