少女と俺がねぐらとして使っている部屋へと戻って来ると、少女はパタパタと足音を響かせながら寝室へと駆けて行った。 打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた殺風景な部屋は、どことなく冷たい印象を与える。だが、この素っ気なさが俺達にお似合いだとも思った。 大人しく待っていると、救急箱を腕に抱えた少女が戻って来た。 少女は椅子に座る俺の前に立つと、タオルで傷口の血を拭き取り消毒液を染み込ませたガーゼで傷口を撫ぜた。 開いた傷口に染みる痛みに少々顔を顰めると、少女に「我慢して」と窘められてしまい、思わず顔を引き締める。 放っておいたとしても、どうせすぐに治る傷だ。最初こそ、俺が何か怪我をする度に手当てをしたがる少女を「必要ない」と突き放していたが、そうして俺が拒否をする度に少女の顔が悲しそうに歪むものだから、今は何も言わず大人しく手当てされることにしている。 「ねえ、あの人達…、一体いつまで私達のことを追い掛けてくるつもりなんだろう?」 「…さあな」 慣れた手つきで傷口に包帯を巻き付けていく少女の口から零れ出した呟きに、俺は素っ気ない言葉しか返してやれなかった。 少女―…、折原甘楽はかつて池袋と新宿を拠点に幅を利かせていた情報屋である、折原臨也の隠し子だ。 利かせていた、と過去形で表わさなければいけないのは、臨也が既に他界しているからであって、臨也が死んでからもう5年も経った池袋では最早アイツのことを覚えている人間は殆ど居ないからだ。 臨也の死因は事故死だった。だが、恐らくあれは「事故」では無く「他殺」だろう。 俺も詳しいことは殆ど知らない。だが、臨也はよりにもよってあの大企業であり色々と黒い噂の絶えない矢霧製薬から、何らかの重要情報を外部に持ち出したらしいのだ。知ってはならないことを知ってしまった上に、それを持ち逃げしたとあれば、目を付けられるのは当然だ。そして挙句の果てには存在自体を消されてしまった。 だが、それで全てが万事解決とは行かず、寧ろ問題はその後だった。 矢霧の人間が、臨也が使用していたオフィスや自宅をいくら家探ししても、臨也の周辺人物を徹底的に洗っても、奴が持ち逃げした情報が何処からも出てこなかった。 途方に暮れた奴等がやっとの思いで掴んだのは、臨也の隠し子…甘楽の存在だった。 俺だって、まさか臨也がいつの間にやら子供をこさえていたことなんて、これっぽっちも知らなかった。 その事実を知ったのは、臨也が死ぬ数日前の事だった。 仕事を終えて部屋で寛いでいた俺の元に、1本の電話がかかってきた。画面に浮かぶ「非通知設定」の文字に、取るべきか取らざるべきか少し悩んだ。 だが結果、その電話を受けてしまったのはある種の予感があったからなのかもしれない。 受話器を耳に押し当てると、通話口から聞こえてきたのはあまりに聞き慣れた声だった。 『やあ、シズちゃん』 『………』 『ああ待って切らないで。今日は君に言っておきたい事があるんだ』 『…んだよ』 『いきなりこんな事を言われても意味が分からないと思うけど…、俺ね、実は子供が居るんだ』 『…はあ?』 『結婚だとか幸せな家族計画だとかに憧れていたわけじゃないよ。ただ俺も一度くらい自分の遺伝子ってやつをこの世に残してみたくてね。5年前、俺の取り巻きだった女の子に産んでもらったんだ。…今は、○○っていう施設に預けてるよ』 『…それを俺に言って、どうしろって言うんだ』 『…別にどうもしないよ。ただ、シズちゃんには伝えておきたかっただけ』 そう言って電話は切れた。 そしてその2日後に臨也は死んだ。 俺が抱える気持ちも、何もかも全て聞かぬまま、あいつは1人で死んでいった。 宿敵である筈の俺に、俺だけに、自分の隠し子の存在を教えたアイツの意図は分からぬままだ。 臨也は自分の娘である甘楽に、父親としての愛情を一切持っていなかったのだろうか。宿敵である俺が臨也を憎む余り、娘を殺してしまうかもしれない可能性は考えなかったのだろうか。 そうなったとしても構わないと思っていたのだろうか。…もしかすると、アイツは俺が臨也に対して抱いていた怒りや憎しみの間に孕んだもう一つの感情に、気づいていたのだろか。 疑問はいくらでも浮かんでくるが、それに答えてくれる相手はもう居ない。結局、全ての真相は臨也があの世まで持って行ってしまったのだ。 答えなど分からない。だが、俺はこうして甘楽と行動を共にし、彼女を付け狙う矢霧製薬の人間から彼女を守り続けている。 「…私、パパが持ち逃げした情報の事なんて何も知らないってあの人達に言えば、見逃してもらえるかしら」 「無駄だ。…どうせアイツらは、お前を監禁して拷問なり解剖なりしてお前が何も知らないってことを自分達自身で確認しないことには、諦めてくれやしねえよ」 不安そうにポツリと呟かれた言葉に、馬鹿正直に答えてやると甘楽の表情が険しくなった。 耳触りの良い慰めを口にして安心させてやるのは簡単だが、これはお互いの命さえ関わる問題だ。 この場凌ぎの嘘を付くことに、何の意味も無い。 「それより甘楽、お前本当に知らないのか?アイツが持ち出した情報のこと」 「何も知らない。…そもそも、私が折原臨也に会ったのはたった1度だけなのよ。会いもしない相手から一体何を受け取るっていうの?」 甘楽が自嘲気味に笑う。 臨也は死ぬ1週間ほど前に、甘楽に会いに彼女が預けられる施設に赴いたそうだ。 父親としての責務を何ひとつ果たさなかった臨也が、自分の娘に会ったのはそのたった一度きり。甘楽はその時初めて実の父親の顔を知ったのだそうだ。 会ったとは言ってもそれは勿論、ほぼ生き別れ状態だった親子の感動的な再会と呼べるようなものでは決して無く、他愛も無い言葉を一言二言交わしただけで、臨也は実に呆気なく「それじゃあ」と素っ気ない言葉を残して去って行ったという。 甘楽はその時に父親と交わした会話の内容すらほとんど覚えていないらしい。それ程、どうでもいいような内容だったのだろう。 俺への意味深な電話といい、5年もほったらかしにしていた娘にいきなり会いに行ったことといい、もしかすると臨也は自分の死期を予想していたのだろうか。 自分が死ぬ前に、成長した娘の姿を一目見ておきたかった。だが娘に対する心苦しさが勝ってしまい、ろくに話をすることも出来なかった。 熾烈な戦いを繰り広げてきたが、アイツは心のどこかで俺のことを信頼していた。だから自分が死んだ後の娘のことを俺に任せるために電話をかけてきた。 …なんて、あまりに都合がよすぎる考え方だ。 これは結局、そうあってほしいという俺の願望に過ぎず、臨也のことを心優しい出来た父親に仕立て上げ、奴が死ぬ前に遺した行動に意味を持たせたいだけだ。 実際、先程の考えを思い浮かべると同時に「そんな訳があるか」と自分で自分の考えを即座に打ち消してしまうほどに、俺は臨也の良心というものを信用していなかった。 「…でも、もう嫌なの…。私のせいで、何の関係も無いシズちゃんまで危険な目に遭わせちゃって…」 「…お前が気にすることじゃ無い」 臨也は俺に甘楽の存在を教えた。だが、それだけだ。俺はアイツに甘楽のことを守ってやるよう頼まれた訳ではない。 甘楽と行動を共にし、そして彼女を付け狙う奴らから彼女を守るボディガードの真似事のようなことをしているのも、全て俺自身の意思だ。 自分の疎ましいまでの力も、人より丈夫に作られた身体も、甘楽を守ることで初めて意味のあるもののように思えたのだ。 だから気にするようなことは何も無い。甘楽を安心させるために、そういった意味を込めて口にしたはずの言葉は何故か逆に彼女の表情を曇らせた。 包帯を巻く手が止まる。 訝しんで少し顔を上げると、月明りに照らされた甘楽の表情は酷く寂しそうなものだった。 「シズちゃんは、パパのことが好きだったんでしょう?」 「…どうして、そう思う?」 「女の勘よ」 今度ばかりは「子供が生意気を言うな」と茶化す気にもなれなかった。 俺を見つめる甘楽の表情は、少女ではなく正しく「女」のそれだった。 甘楽は目を反らさない。お互いの瞳を見つめ合ったまま、数秒間無言の時が流れた。今、彼女は一体その小さな頭で何を考えているんだろう。そんなことがぼんやりと頭の端を掠める。 いきなりの問いかけに、自分でも驚くほど冷静に返事を返すことが出来たのは、いつかこんな日が来ることを予測していたからだろうか。 甘楽と過ごすようになって5年の月日が流れた。壊れてしまうほどに小さかった彼女も、随分と成長した。 長い月日を一緒に過ごすことで、俺達は色々な苦境を乗り越え、そしてお互いの色々な側面を見てきた。 甘楽が俺を見る目に親愛とは異なる特別な感情を孕んでいることに俺が気付いたように、彼女も俺が彼女の父親のことをどういう風に見ていたのか、気づいてしまったのだろう。 そして、俺が今までずっと彼女を通して一体誰を見続け、一体誰を守り続けて来たのかということを。 「…シズちゃんは、どうして私のことを守ってくれるの?」 震える唇が言葉を紡ぐ。 先程襲われた男達が言っていた言葉が反響する。「何故アイツの娘を庇うんだ?」と。 恐らくその答えは俺自身も分かっている。いや、俺自身が一番よく分かっている。 ただ、それを全て認めてしまうほどの度胸が無いだけだった。 「私が、『折原臨也』の娘だから?…だから、守ってくれるの?」 ハッと息を呑む。 この幼い少女に、自分の浅ましい考えや思い全てが見透かされているようで、心臓を抉られるような気分だった。 「それは違う」と言ってやることが出来たら、どんなに楽だろう。「誰の娘だろうが関係ない。甘楽だから守るんだ」と言ってやれたら、彼女もそして俺自身も、どれほど救われることだろう。 だがそんな思いとは裏腹に、俺の喉はカラカラに乾いて、唇から声が漏れ出すことは無かった。 居心地の悪さだけが募っていき、俺は思わず少女の真っ直ぐな瞳から目を反らす。 それと同時に、彼女の唇から小さく吐息が漏れた。恐らく笑みを零したのだろう。あまりにも自嘲的な笑みだった。 「…変なこと聞いて、ごめんなさい。私疲れちゃったから、もう寝るね」 先程までの気まずい空気を感じさせないほど明るい声音で甘楽が呟く。だが無理に作られたその明るい声が、余計に痛々しかった。 パタパタと足音が響き、小さな身体が寝室へと消えるのを見届けた後、俺は息を吐きだして椅子に深く身を預けた。 包帯の下の傷が、今更ズキズキと痛む。 行動を共にする間、甘楽は度々「私が折原臨也の娘に生まれていなければ」という言葉を口にした。 そうであれば、こんな風に逃げ回る生活を強いられることも無かったろう。同じ年頃の子供達のように、普通に学校に通い友達を作り、ごく普通の女の子として過ごすことが出来たろう。 そして、俺のような男と出逢ってしまうことも無かったろう。 だが、彼女自身がいくら否定しようとも、甘楽は間違いなく折原臨也の娘だった。 笑った時に猫のように細くなる双眸、理屈っぽい喋り方、俺の名を呼ぶ時に片方の口端が上がる癖、そして強いた訳でも無いのに俺のことを「シズちゃん」と呼ぶその呼び方さえも。 どこを取っても甘楽は臨也の娘と呼ぶに相応しく、そして彼女から臨也の面影を感じる度に俺の罪は深くなる。 俺も随分歳をとった。 もう感情のままに行動するほど子供では無いし、大人としてのズルさも醜さも等しく身に付けてきた。 甘楽が引っ込んだ寝室からは、寝息の代わりに押し殺したような泣き声が聞こえてくる。 寝室へと足を運び、震える彼女を優しく抱きしめてやることは簡単だ。 だが、それは彼女とそして俺自身を楽にさせると同時に、互いを等しく傷つける。 甘楽を通して「折原臨也」を追いかけ続けている俺が、甘楽が寄せる想いに永遠に応えてやることが出来ない俺が、一時の救いを求めるその行為がどれほど罪深いことか。 なあ臨也、何でお前は俺と甘楽を出逢わせたんだ。何で…、俺達を残して逝っちまったんだ。 思わず口から漏れた問いかけに、答えるものは誰も居ない。 やりきれない思いを抱えながら椅子に沈み込み、深く目を閉じる。 寝室から漏れるすすり泣きが、ひどく傷に響いた。 |