これこれの続き





授業の終わりと放課後の始まり、その2つの意味を併せ持つチャイムの音が鳴り響くと同時に、臨也は立ち上がった。
帰り支度は授業中に既に済ませている。教師への挨拶もそこそこに、扉へと足を向かわせた。
途中、「臨也は相変わらず早いねぇ」と級友に声をかけられたが、軽く手を振るだけに留め、振り返ることもせずに教室を後にした。
岸谷新羅は臨也が唯一心を許しているといってもいい友人だ。それほど友人としての付き合いも長い。今更ぞんざいな態度を取ったとしても、相手は毛ほども気にしていないだろう。

昇降口へ辿り着き、自分の下足箱を開きスニーカーを取り出した所で背後から声をかけられた。
聞き覚えの無い声に、少し不審に思いながらも振り返る。そこに立っていたのは、やはり知らない男子生徒だった。


「折原、こないだ言ってたこと考えてくれたか?」
「…ごめん、誰だっけ」


見た事があるような気もするし無い気もする。少なくとも同じクラスの人間では無いので、下校時に靴箱で気安く声をかけられるような間柄ではないことだけは確かだ。
心当たりを思い出せそうにも無かったので素直に疑問をぶつけると、相手の表情があからさまに歪んだ。


「お前、覚えてねえのかよ!バスケ部に入らないかって先週誘ったばっかだろぉ!?」


そういえば、そんなこともあった気がする。
だが、余談だが臨也はその他にも現在、サッカー部とテニス部と陸上部からも勧誘を受けているうえにそのどれにも興味を持っていないので、勧誘してきた相手の顔などいちいち覚えてはいないのだ。
運動神経は抜群に良いのだが、こういった部活への勧誘などが面倒であることと、もともと目立つことが好きではなかった臨也は体育の授業などでも適当に手を抜き中の上ほどの成績を保ってきたので、今までどの部活にも目を付けられた事が無かったのだが。
ここ最近で様々な部活から勧誘を受ける原因となったのは、間違いなく先週行われた体育祭だろう。

臨也の親代わりである静雄が、久々に仕事も早く終わり暇だというので体育祭に見学に来ていたのだ。
臨也も大人びてはいても、まだ10代の子供である。密かに想いを寄せている相手が自分を見に来るというのだから、手など抜ける筈が無い。
全ての競技に全力で挑んだ結果、臨也はかなりの好成績を残し自らのチームを勝利へと導いた。
今まで目立つ事が無かった臨也の活躍に、クラスメイト達は驚いていたが、静雄は素直に「すげえじゃねえか!」と喜び頭を撫でてくれた。
だが静雄の輝かしい笑顔と引き換えにその翌日から臨也のもとに訪れたのは、様々な部活から勧誘を受け続ける日々だったのだが。


(ちょっと調子に乗りすぎたな…)


そう反省してみても、後の祭りである。
だが反省はしても、静雄のあの笑顔を見た後では後悔なんてものは微塵も感じない。寧ろ臨也は自分自身に「よくやった」と褒めてやりたいほどの誇らしささえ感じているのだ。


「な、折原バスケはいいぞ?協調性が磨けるし体力もつくし何と言っても女子にモテる!」
「そういうの興味無いから」
「お前だったら即レギュラー入り出来るぜ!?何だったらまず体験入部だけでも…!」
「悪いけど、さ」


次から次へと思い付く限りの賛美の言葉を並べ立てる男子生徒の声を遮り、臨也は静かに口を開いた。


「俺が居ないと満足に生きていけない手のかかる人のお世話で忙しいから、そんなことしてる時間無いんだよね」


そう言い放ち、呆然と立ち尽くす男子生徒に向けてゆるりと微笑んでみせると、彼の両頬が仄かに朱色に染まった。
ひらりと手を振り背を見せて歩き始めても、彼が声をかけてくることはもう無かった。
臨也のこの発言から、数日後に「折原臨也はヒモ同然の生活を送っている年上の恋人と同棲している」という一人歩きした有りもしない噂がまことしやかに語られることになるのだが、そんなことは臨也の知ったことでは無かったのだった。

校門を抜け、自宅への帰り道を辿り始めたところでポケットに入れていた携帯のバイブが震え、メール受信を合図する。
画面を開いてみると、そこには噂の「臨也が居ないと生きていけない人」からのメールが届いていた。
この形容は自分でも些か調子に乗ったというか、誇張して言い過ぎた気がしなくもない。
だが実際、洗濯から食事の世話から部屋の掃除からシャツのアイロンがけまで、何から何まで静雄の面倒を見ていることを省みると、あながち間違っていないとも思うのだ。
臨也がそれら全てを放棄すると、静雄は部屋にキノコを生やしかねないし、餓死寸前まで追い込まれる可能性も大いに有り得る。
シズちゃんは本当、俺が居ないと駄目なんだから、なんて自惚れた感情を抱き口元に笑みを浮かべながら、臨也は届いたメールを開いてみた。そこには単純な文章が1つ。


『今日はいちごのケーキが食べたい気分だ』


思わず、だからどうした、と言いたくなる内容がそこにはあった。
そのメールを前に、臨也は暫し頭を悩ませる。
このメールは所謂おつかいでも、おねだりでもない。ただ静雄がいちごのケーキが食べたい、という今の心境を送りつけてきたに過ぎない。どこにも『買ってこい』の文字は見つからないので、臨也がこのメールを受けたところで「ああそう」と返しケーキ屋には見向きもせず真っ直ぐ家に帰ったところで何の問題も無いのだ。
だが静雄は分かっているのだろうか。
こんなメールを送りつけてこられて、臨也がそれを無視することなど到底出来ないということに。一瞬頭を悩ませたその次の瞬間にはもう既に、学校からケーキ屋までの移動にかかる時間と財布の中の残金を考え始めているということに。


(そこまで計算高いこと考えてたら、さすがにタチ悪いけど)


だがあの静雄に限って恐らくそんなことは無く、何の考えも無くただ何となくで送ってきたに過ぎないだろう。
いちごのケーキが食べたいという主張をし、それで気を利かせた臨也がもし買ってきてくれたら嬉しい、と所詮そんな程度の考えだろう。
臨也がケーキを買って帰らなかったとしても静雄は勿論文句を言ったりはしないだろうが、臨也の選択肢はこのメールを受けた時点で決まっている。
ただ静雄の喜ぶ顔が見たいから。
臨也の行動理念はそれだけあれば充分だった。