「ただいまシズちゃ〜ん、彼氏のお帰りだよ〜っと」 リビングへ向けて声高らかに叫びながら、靴を脱ごうとした足が縺れそのまま玄関へと倒れ込んだ。 冷たいフローリングの床が火照った頬に気持ち良い。瞼を閉じてみると、心地良い眠気に襲われた。 こんなに酔ったのは久しぶりだ。 仕事の交渉中に、取引相手に奨められるまま酒を呑まされてしまいこのザマだ。 今後の関係もあるし、折角の誘いを無碍に断ることも出来なかったとはいえ些か情けない。 向こうからしてみれば、俺を酔わせて自分達に何か有益な情報でも引き出してやろうという腹だったのだろうが、此方だってプロだ。 そう簡単に余計なお喋りをするほど口は軽くない。 その場は持ち堪え何とか事なきを得たが、愛しい恋人が待つ家へと帰り着くと、やはりその緊張感も緩む。 ドアを開けると同時に、安心する空気と匂いに包まれ、今まで腹の底で燻っていた酔いが一気に回った気がした。 玄関で倒れ込んだまま、じっと横たわっていると身体中にじんわりとアルコールが巡っていく感覚に蝕まれる。 不快ではない。どちらかというと心地良かった。酒が苦手な恋人に合わせ、俺自身もここ最近呑んでいなかったからこんな感覚は久しぶりだ。 じわりじわりと身体中に染み込んでいくアルコールを感じながら瞼を閉じていると、リビングのほうから足音が聞こえてきた。 素足が床を叩くぺたぺたというその音は、どんどん俺のほうへと近づいてき、そして俺の頭上でぴたりと止まった。 「…おい、こんなとこで寝てんじゃねえよ」 いかにも不機嫌な恋人の声が上から降ってくる。 眉根を寄せながら目を細めて唇を尖らせ、これでもかと不愉快そうな顔をしているであろう顔が易々と想像出来る声音だった。 ん〜、と生返事を返すと、小さな舌打ちのあとに足先で頭を軽く小突かれる。 軽く、とはいってもそこはやはりシズちゃんだ。常人以上の威力があるし、それに酔いが回った脳内をぐらぐらと掻き回されたかのようで気分が悪い。 寝返りを打ち、頭上を見上げてみると憮然とした表情で此方を見下ろすシズちゃんと目が合った。 正にぴったり想像通りの顔をしていたシズちゃんに笑いが込み上げて、少し吹き出すと、彼の表情は一層険しくなった。 「寝んなら、寝室行って寝ろ。邪魔だっつーの」 「いやー…でも、動くの面倒くさいんだよねぇ…」 「怠けてんじゃねぇよ、すぐそこだろうが」 「じゃあさあ、シズちゃんが俺のことベッドまで運んでよ」 シズちゃんの鼻先へ向けてピンと人差し指を付き出すと、途端に歪んだ彼の顔へ向けてにゃははと笑った。 酔いが回って指先1本動かすのも面倒な俺にとっては、たった数十歩先にある寝室へと向かうことすら億劫だ。だがシズちゃんは俺が此処でゴロゴロと寝っ転がっているのは邪魔だという。ならばシズちゃんが俺を寝室まで運んでくれれば全てが万事解決じゃあないか。うん、これはとても妙案だ。 とは言ってみても、さすがにシズちゃんがそう素直に俺のことを運んでくれるとは思えない。 「馬鹿らしい。ここで寝て勝手に風邪でもひいとけ」と置き去りにされるか、もしかすると小脇に抱えて寝室まで運びベッドに乱暴に放り投げるくらいの優しさは見せてくれるかもしれないが、どちらにせよあまり期待できる行動は取ってくれなさそうだ。 頭上で明からさまに落とされた溜め息が聞こえ、これは呆れて放置されるパターンだなと思い、再び瞼を閉じた次の瞬間、俺の身体が奇妙な浮遊感に襲われた。 「……っ、な、ん…!」 冷たい床から身体が離される。中途半端に脱いだままだった靴が足から抜け落ち、床にゴロリと転がった。 不安定な体勢を支えるようにシズちゃんの首元へと手を回すと、吐息すら感じられるほどの距離に彼の顔が広がり思わず手を離しそうになってしまった。 そこで俺はようやく理解する。今、俺はシズちゃんにお姫様だっこをされているのだと。 「ちょ…っと、シズちゃん!」 「んだよ、運べって言ったのは手前だろうが」 「…………」 この、してやったり顔。天然でやっている訳では無さそうだ。 何だよわざとかよ、シズちゃんのくせに生意気! 異議を唱えたい気持ちでいっぱいだったが、とにかく今は真っ赤に染まってしまった顔を見られないようにすることのほうが最優先事項だった。 隠すようにシズちゃんの胸元へと顔を埋めると、頭上から小さく「…酒くせえ」と不機嫌そうな呟きが聞こえた。 寝室へ運ばれてからもシズちゃんはとことん紳士だった。 優しいのは運ぶ時だけで、寝室に着いた途端にベッドへ乱暴に投げ落とされるくらいの覚悟はしていたのに、俺をベッドへ下ろすその動作すら酷く丁寧で戸惑ってしまうほどだった。 ベッドへと寝かされ布団をかけられ、終いには幼い子供にするかのように、胸の辺りをポンポンと優しく叩かれる。至れり尽くせりの彼の態度に、俺は感動を飛び越え恐怖すら感じてしまう。 「どうしたのシズちゃん…今日はやけに優しいね」 「…たまにはいいだろ」 「そりゃもちろん悪くはないけど…、あんまりかっこいいと惚れ直しちゃいそう」 「そりゃ良かった。抱いてやろうか」 ふざけるように言った俺の台詞に、返ってきた彼の言葉は俺の予想を裏切るものだった。 「…驚いた、シズちゃんそういう冗談も言えるようになったんだ」 「冗談じゃねえよ」 驚きで目を丸くした俺を見つめるシズちゃんの表情は至って真面目だった。 顔の横に手を付かれ、思わずそちらへ目線を遣ってしまう。頭上に影が落ちたのに気づき、再び視線を前へと戻すと鼻先がくっ付いてしまいそうなほど至近距離に迫ったシズちゃんの顔があった。 条件反射で瞼を閉じると、唇に暖かい感触。唇を食まれるような柔らかいキスの感覚に、酔ってしまいそうになる。 頭の芯がぼんやりと熱くなっていき、何だかもうこの先何が起ころうとどうでもいい気さえしてきた。 服の裾から侵入してきたシズちゃんの冷たい指先が腹をなぞる。まさかこれは、割と危険な状況なんじゃなかろうか。俺は本当にシズちゃんに抱かれそうになっているんじゃなかろうか。 脳内では先程から五月蝿いほどに警告音が鳴り渡っている。だがそんなものに気付かないフリをしてしまってもいいかと思えるほど、俺はこの心地良さに酔っていた。 俺が女役をやるなんて絶対に御免だと思っていたし、タチの役目を譲ってやる気もさらさら無かった。だというのに、このザマは何だろう。 ああもう何もかも考えるのが面倒だ。俺は今酔っている。しこたま酔っている。だからこの先何が起ころうと、それは仕方のないことなのだ。 自分の心中の葛藤に決着をつけ、今はこの心地良さに身を任せてしまおうと、シズちゃんの首元へ腕を絡ませようとしたところで、不意に彼の温もりが離れていった。 「…なんてな」 「…え」 「さっさと寝ろよ、酔っ払い」 呆気に取られる俺を置き去りにして、少し乱れた服装をさっさと直すと彼は何事も無かったかのように立ち上がった。 ここで俺はようやく悟る。からかわれたのだということに。 この折原臨也が、単細胞馬鹿で有名のあの平和島静雄に、いいように扱われあしらわれ揶揄されたのだ。…これほどの屈辱があっていいものだろうか。 恥辱に拳を震わせる俺に気付く由もなく部屋を出て行こうとする、シズちゃんの手首を咄嗟に掴んだ。 バランスを崩したシズちゃんの身体が重力に任せ此方に倒れ込む。 「…っ、おい何だよっ…、ん、んぅ!?」 顎を掴み逃げられないように固定してから、その唇にキスを落とす。 先程、彼が仕掛けてきたような生易しいキスではない。唇をこじ開けて舌を捻じ込むとびっきり濃いディープキスだ。 逃げるように動き回る彼の舌を何度も追い回しては捕まえて蹂躙した。舌がぬるぬると動く度に、溢れた唾液が口元を汚す。 快楽と息苦しさから、シズちゃんの目元に生理的な涙が浮かんできた頃を見計らって唇を解放してやると、彼がハァハァと肩で息をしながら睨みつけてきた。 「…はっ、はぁ…っ、な、何だよいきなりっ…!」 「…別に。ヤられっぱなしは性に合わないってだけ」 平然とそう言い放ってみせると、ぐ、と言葉を詰まらせた彼が悔しそうな顔をしてその場から走り去っていった。 バァン!と力まかせに閉められたドアの蝶番がギィギィと軋む音を聞きながら、俺は背中から布団へと倒れ込んだ。 枕へ顔を埋めながら、未だにドクドクと高鳴っている胸の鼓動が鎮まるのをひたすら待つ。 全ては酒のせいだ。俺が酔っ払っているせいだ。シズちゃんに抱かれてもいいかもしれない、なんてそんな風に思ってしまったのも全ては気の迷いだ。 ゆっくりと瞼を閉じて、先程のキスの後の涙に濡れたシズちゃんの瞳を思い出してみる。 僅かに反応を示した股間へと目を遣り、良かった俺はまだ正常だ、と小さく一人ごちた。 |