照明が落とされた薄暗い部屋の中に響くのは自分自身のタイピングの音だけだった。 俺の部署は他の営業部に比べても比較的に仕事量が少なく、然程忙しくも無い。 定時を過ぎると大半の社員が帰り支度を始め、そして19時を迎えようとしている今は俺以外の全員が姿を消していた。 皆、雀の涙ほどの残業手当のために残務に勤しむほど仕事熱心では無いということなのだろう。かく言う俺自身だってそうだ。 今、パソコンに向かって打ちこんでいる報告書は必ずしも今日やってしまわなければいけないものでは無い。期日まではまだ十分すぎるほどの時間がある。 本当は俺だって他の社員同様、もっと早く帰れるはずだった。なのにこうして会社に残る口実を無理矢理作ってまで俺がここに居る理由は、ただひとつしか無い。 『今晩7時、この間の休憩室で待ってるよ』 キーボードの脇に隠すように置いたメモの上に几帳面に並んだ文字が、此方を眺めているようだった。 律儀に従ってやる義理など無いはずだ。だが以前の休憩室での一件から、いくら気にしないように努めても心の内にもやもやとわだかまるこの想いを晴らすには折原本人と会って話すしか解決方法が見つからない。 何も俺だって、あの日折原が言ったことを全て信じているわけじゃない。むしろタチの悪い冗談である確率のほうが格段に高いと思う。 こんなメモに乗せられてのこのこと休憩室に現れた俺を馬鹿にして嘲笑うつもりかもしれない。 だが、単純に俺を揄うことが目的だとしたら、わざわざこんな面倒な手段を取るだろうか。こんなメモにしたってポケットに入れられていることに俺が気づかなければ意味が無い。 あの狡猾な折原が、こんなにも行き当たりばったりで運任せの悪戯を仕掛けるとは、どうしても思えなかったのだ。 かと言って、ならあの告白が折原の本心だったのかと問われると、それもどうも信じ難い。 そこまで考えて結局俺の思考は降り出しに戻ってしまい、堂々巡りを繰り返すばかりだった。 「…7時半、か」 時計を確認してみると、指定された時間はとっくに過ぎていた。 こんなところでぐるぐると考えていても、埒が明かない。いい加減腹を括ろうと、パソコンの電源を落とし立ち上がった。 少し戸惑う足で床を踏みしめ、休憩室へと向かう。もしもそこに折原が居なければ、すぐさま帰ろうと心に決めて。 休憩室へと近づくに連れ、段々と鼓動が脈を打つ速度が速くなっていく。 薄暗い廊下を煌々と照らす明かりは、間違いなくこんな時間に利用する人間など殆ど居ないはずの休憩室から漏れるものだった。 なるべく足音と気配を消し部屋の前までやってくると、ドアに嵌められたガラスの隙間から中の様子をそっと窺う。 折原は、そこに居た。 備え付けのソファに座り、やけに神妙な面持ちで缶コーヒーを握りしめていた。 まさか指定された時間である19時から今までの間、アイツはずっとここに居たのだろうか。来るかも分からない、そもそも呼び出しに気づいているかも分からない俺をずっと待ち続けていたのだろうか。 腹の底から、言い知れぬ感情が湧きあがってくるようだった。喜び、悲しみ、怒り。どんな単語を当て嵌めてみようとしてもこの感情にピッタリと当て嵌まる言葉は見つけることが出来なかった。 ただ、これだけは確実に言える。 折原が言っていたことは、冗談なんかじゃない。アイツは本気だ。本気で…俺のことが、好きなんだ。 「……シズ、ちゃん」 考えるよりも先に、気付けば俺は休憩室へと続く扉を開いてしまっていた。 キィと小さく響いた音に肩を揺らした折原が、此方へと目を向ける。その瞳が僅かに見開かれた。 「…本当に来るとは、思わなかった」 「……来いって言ったのは、お前だろ」 違う。あのメモには『待っている』と書かれてはいたが決して『来い』とは書かれていなかった。 つまりここに来たのも、折原の気持ちに感づいておきながらこうして姿を現したのも、全ては俺の意思だった。 入り口で突っ立っているのも不自然なので、とりあえず座ろうと思い、周囲に視線を巡らす。 折原が座っている向かい側にもソファが設置されているが、折原と向き合い顔を突き合わせて話をすることなど出来そうもなかった。かと言って、隣に座るのもどうなのだろう。 悩んだ結果、折原の隣に1人分スペースを空けて座ることに決めて、腰を下ろした。 折原が俺を呼び出した理由も、伝えたい言葉も気持ちも全て分かっている。 分かっているからこそ、俺のほうから声をかけることも出来ず、俺達の間に重く長い沈黙が落ちた。 「…ちょっと待って」 重苦しい雰囲気を打ち破ったのは折原のほうだった。 ソファから立ち上がり自販機へと足を向けると、そこで購入した缶飲料を俺へと手渡してくる。ほぼ無意識に伸びた右手がその缶を手にした瞬間、それがココアだということに気づき先日の様々な出来事がフラッシュバックのように蘇ってきた。折原から受けた冗談のようなプロポーズ、頬にされた軽いキス。色々な出来事が脳内を駆け巡り、気恥ずかしさから思わず目を逸らすと折原が小さく苦笑したのが分かった。 「最近、どうなの?」 「最近?」 「仕事。この間は辞めたいって言ってたじゃない」 「…あ、ああ…」 ソファへと座り直した折原からの曖昧な問いかけの意味が分からず首を傾げる。返された返答で、俺はようやく先日この休憩室で折原と話していた内容を思い出した。 その後の出来事の衝撃が大きすぎてすっかり忘れていたが、そういえば最初はそんな話をしていたのだ。 伸びない営業成績に、溜まっていく一方のストレスと疲労。日々の生活に嫌気が差し、たまたま居合わせた折原に愚痴をもらした所、コイツが提案した策が「仕事を辞めて俺の嫁になればいい」などとふざけているとしか思えないものだったのだ。 「最近は…別に、前に比べちゃそこそこ充実してるっつーか…、まあ辞めようとは…思ってねえ」 「…そう」 辞めたいと思わなくなったというよりかは、近頃はそんなことを考える余裕すら無かったのだ。つい今の今まで、仕事を辞めたいと思っていた自分の気持ちさえ忘れ去ってしまっていた。 俺の返答を聞いた折原の声のトーンがほんの僅か暗くなったように聞こえたのは気のせいだろうか。一瞬目を逸らした後、再び俺の方を振り向いた折原の顔が無理矢理作られたまるで感情の無いお面のような笑顔に見えるのは思い過ごしだろうか。 「残念だな。シズちゃんが辞めたら、ライバルが一人減ると思ったのに」 軽い調子で紡がれた折原の言葉は、容易く嘘だと見破れるほどに真実味の無いものだった。 営業成績トップの折原にとって、最下層を彷徨う俺なんてライバルになるどころか、同じ土俵にすら上がれていないことは俺自信が痛いほどに分かっている。 俺が会社を辞めずに仕事を続ける。それにより折原が落ち込む本当の理由…そんなことはいくら鈍感な俺でもいい加減に気がついている。 仕事を辞めないということは、即ち俺が先日の折原からの告白に答えを出したということなのだ。折原にとっては胸が痛む結果にしかならない答えを。 「…シズちゃんさ、あの日から俺のこと避けてるでしょ」 「…避けてねえよ」 「嘘。わざと俺に会わないようにしてる」 「してねえって!」 「でも、今日営業部で鉢合わせた時、あからさまに気まずそうな顔してた」 「………」 確かに出来ることなら会いたくないと思っていたし、なるべく会わないようにしていたが、それを感づかれる程ひどい避け方をしていただろうか。 そんな意識は無かったが、言われてみるとそうなのかもしれない。 無意識のうちに、折原が居そうな場所には近づかないようにしていた。第一営業部は勿論、食堂や屋上、そして…この休憩室。 俺は逃げていたのかもしれない。答えを出したくなかったのかもしれない。 他人から愛の告白をされたことなんて俺にとっては初めての体験で、しかもそれは同僚で、そのうえ同性で。 予測もしていなかったし今後どう対処していいのかも分からない事態から、俺は目を背け全てを投げ出し逃げてしまいたかったのかもしれない。 「…しつこく迫るつもりは無いし、俺の気持ちに答えて欲しい…なんて、身勝手なことは言わないよ」 俯き床をじっと見つめながらココアの缶を両手で握り締める俺の隣で、折原は言葉を選びながらゆっくりと話し続ける。 一瞬言葉が途切れたかと思うと、折原は飲んでいたコーヒーの残りをぐいっと全て煽り、空き缶を部屋の隅のゴミ箱へと投げた。 ゴミ箱の縁に当たり弾き飛ばされた缶は、カラカラとどこか物寂しい音を立てながら床を転がった。 「…でも、俺がこの間シズちゃんに言ったこと。…それだけは、無かった事にしないで」 俺のほうに向き直って真剣な声音で言葉を紡いだ折原の顔を、俺は見ることが出来なかった。 俯いたままココアの缶に口を付ける。無理矢理流し込んだそれは、生温くて喉に絡みつくほど甘かった。 |