通常の授業中なら常時つけっぱなしになっているエアコンも今は電源が切られている。 空調設備が整っているにも関わらず蒸し暑い教室内。開け放たれた窓から流れ込む生温い風は気休めにもなりはしない。 ミンミンと外で五月蝿く鳴き喚く蝉の声が、更に不快感を増長させた。 「本当、勘弁してほしいよねぇ」 流れ落ちる汗で張り付いたシャツに辟易しながらプリントにペンを走らせていると、途端に隣で響いた声に眉を寄せる。 廊下側の一番端の列の席にいる俺と、窓際の一番端の列の席にいるアイツ。 普段の騒々しい教室内では絶対に声が届くことは無い距離だ。だが今ここに居るのは俺とアイツの2人だけ。 閑散としたこの教室内では、小さな声音で呟かれた言葉ですら俺の耳へと届いてしまう。 「何が悲しくて、折角の夏休みにシズちゃんなんかと2人きりで補習受けなきゃなんないんだろうね、本当」 それはこっちの台詞だ、このクソノミ蟲野郎。 自分を棚に上げた臨也の呑気な発言に対し、瞬時に湧き上がった殺意と罵倒は何とか心の中へと押し込めた。 夏休みを迎える前の終業式当日、いつものように逃げ回る臨也を追いかけている途中でグラウンドのサッカーゴールを最早ゴールとしての役目を成し得ないほど破壊した俺は、サッカー部顧問の怒りを買ってしまい、反省文なんかでは生温いということで折角の夏休みにこうしてわざわざクソ暑い教室で補習を受けさせられるハメになったのだ。 元凶である臨也も勿論同じ補習を受けることになったのだが、サッカーゴールを壊したのは俺であって臨也自身は何の関係も無いというのがこのふざけたノミ蟲の言い分だ。 ただでさえ熱気が充満して嫌な空気が渦巻くこの教室内に、この世で一番嫌いな生き物と2人きり。これ以上の地獄がこの世にあるだろうか。 目の前には課題として与えられたプリント。教師は、このプリントを俺達に配るや否や、巻き添えを喰らうのは御免だとでも言いたいばかりの素早さで教室を後にしていった。 俺だって折角の夏休みにこんな苦行は二度と御免だ。つまり先程からベラベラと喧しいノミ蟲の安い挑発に食ってかかるのが得策では無いことぐらい流石の俺でも分かっているのだ。 うだるような暑さと様々な精神的苦痛が、俺を理性的にしてくれていた。 「ていうかシズちゃんさっきから同じ問題解くのに何分かけてんのさ。おつむが弱いうえに頭も悪いとか本当救えないねぇ」 ぼきり。 先程まで頑張って問題を解いてくれていたシャーペンが、悲痛な音をたてて俺の手中で90度に折れ曲がった。 湧き上がった怒りをたったこれほどの犠牲で鎮めることが出来た自分に敬意を表したい。よく頑張ったじゃねえか、俺。 「……べらべら喋ってねえで課題やれよ」 とにかくコイツは此方が何かしらの反応を示すまで、黙る気が無いらしい。 そう悟った俺はとりあえず無難な言葉をぶっきらぼうに投げつける。すると臨也が僅かに肩をすくめたのが視界の端に映った。 「その課題が終わって暇だから、こうしてべらべら喋ってるんだけど」 「……は、」 思わず隣を見遣ると、臨也のプリントは既に裏向けにされて机の隅に追いやられており、筆記具までご丁寧にペンケースの中へと仕舞われていた。 ちなみに俺達に与えられた課題プリントは合計10枚。俺がようやく2枚目に差しかかろうとしているこの現状で、臨也はもう10枚全て終わらせてしまったというのか。 ぼぎぼぎり。 先程よりも遥かに痛々しい音を響かせながら、本日2本目のシャーペンが逝去した。 ああ、世間というものは何て不公平なんだろう。俺が一体何をしたというのだ。いや何もしなかったとは言わないが少なくとも最早修復不可能なまでに性格が捻じ曲がっているこのノミ蟲よりかはマシな行いをしてきているはずだ。だというのに何故この世界はコイツにこんなにも優れた能力を与えてしまったのだ。この世に神というものが本当に居るのだとしたら呪いたい。神も仏もこの世の偉い奴全てを一切合切呪い尽くしたい。 一瞬でそこまで思考が及び、そして次の瞬間自分がどれほど馬鹿げたことを考えているのかという事に気付き、考える事を放棄した。 居るかも分からぬ神に呪いをかけるよりも、目の前の課題に向き合うことのほうがよっぽど現実的だ。 小さく溜息をついてから、ペンケースから新たなシャーペンを取り出し再び課題に取り組み始めたが、どうにも集中力が散漫してしまう。 喉がカラカラになっていることに気付き、思わず唾を飲み込むと乾ききった喉がヒリヒリと痛んだ。ああ、何かすっきりしたジュースが飲みたい。コーラとか。 だが今日はうっかり財布を家に忘れてきてしまっていたことを思い出し、鞄へと伸びかけていた手は再び机の上へと戻っていった。 絶望感に見舞われる俺に追い打ちをかけるかのように、臨也の耳障りな声が教室内に響く。 「シズちゃんって以外に真面目っていうか努力家だよね。どうせいくら頑張ったところでその努力は報われないのにねぇ」 「………」 「ほら、また同じ系統の問題で躓いてる。なんなら俺が教えてあげようか?」 「………うるせえ、ちょっと黙ってろ」 臨也のねちっこい声が耳に纏わりついて、これっぽっちも集中出来やしない。 苛立たしげに言葉を吐き出すと、それを合図にしたかのように五月蝿く響いていた声がぴたりと止んだ。 訝しみながらチラリと隣を見遣ると、赤い瞳と視線が合い何故だか胸がドクンと脈打った。 「……なんだよ」 「シズちゃんが黙ってろって言ったんでしょ」 「…こっち見んな」 「注文が多いなぁ」 おかしそうにクスクスと控えめに笑う臨也の表情は初めて見るものだった。 いつもの上から目線で人を小馬鹿にしたような表情とは違う。何だかこう…愛しいものを愛でるかのような慈しみに溢れた表情だった。 …いや、そんな訳あるか。このノミ蟲がよりにもよって俺をそんな表情で見る理由がある筈が無い。くそ、何だよ調子が狂う。 依然やかましく鳴り響くセミの声が耳に纏わりついて、背筋を生温い汗が伝い落ちた。隣の席からは未だに視線を感じる。思わずぎゅっと目を閉じると先程の臨也の顔が瞼の裏にチラついた。 正体不明の感情が湧き上がり、胸の内をドンドンと叩かれているかのように心臓が痛んだ。ちっとも課題に集中出来ない。問2の答えも解らない。 何だこれ、くそ、気持ち悪い。 ガタリと音を立ていきなり立ち上がった俺に、臨也は少し驚いたように目を丸くしていた。 そのまま背を向けて教室を後にした俺に、ワンテンポ遅れて臨也が何か声をかけてきたような気がしたが俺は気づかなかったフリをして廊下を駆けた。 トイレの水道で顔を洗うと、もやもやとした気分もいくらか晴れた気がした。 陽射しに晒され熱を持った水道管が捻り出した水は、お世辞にも冷たいと言えるものではなかったが俺の目を醒ますには充分な役割を果たしてくれた。 いくらかスッキリした気分で教室へ戻ると、そこに臨也の姿は無かった。 どこかへ行ったのだろうかと臨也が座っていた席を見遣ると、先程まで脇にブラ下がっていた学生鞄が無くなっていることに気づいた。どうやら家に帰ったらしい。 先程俺に声をかけてきたのは、自分が帰ることを伝えたかったのだろうか。…まあ、どうでもいいか。 自分の席へと戻り、途中だった課題を再開させようとすると、机の上に置いてあるものが否応なしに目に入った。 表面に少し汗をかいて濡れているコーラの缶。手を伸ばして触れてみると、生温かい教室には不釣り合いなほどヒヤリと冷たい。 一体誰が、こんなものを。 そんなことはわざわざ考えてみるまでもない。分からないのは、誰がこれを置いていったのかということではなく、何のために置いていったのかということだ。 どこか釈然としない気持ちを抱えながら席に座ると、ペンケースを重石にして小さなメモ用紙が置いてあることに気づいた。 訝しみながら手に取って見ると、そこには俺の頭を悩ませ続けた問2の答えが記されており、その下にはご丁寧に解き方の公式まで書いてあった。 「…何のつもりだよ」 優しさのつもりか、それとも同情か、いやただ単にいつもの気紛れかもしれない。 相変わらず何を考えてんだか分かんねえ奴だ。何のつもりか知らねえが、余計なことしやがって。 わざと悪態をつきながらも、心の中にじわじわと広がっていく感情は実際口に出している言葉とは全く違うものだった。それを自分で理解しているからこそ、余計に訳が分からなくて腹が立つ。 コーラに手を伸ばしプルタブを開けてみる。プシュッと小気味良い音が響き、口へ運ぶとシュワシュワと弾けながら乾ききった喉を潤していった。 …今度アイツに会ったら、一言くらい礼を言ってやってもいいかもしれない。 そんなことを考えながら、問2の回答欄に答えを記した。セミの声はまだ鳴り響いている。 |