人を殺してしまった。

床の一点を見つめ、辛うじて聞こえるか聞こえないかギリギリの声量で紡がれた言葉は、それでも確かに俺の鼓膜を震わせた。
よく見ると彼の細い肩は小刻みにカタカタと震えている。それが決して深夜の寒さから来るものなどでないことは明らかだった。



事の起こりは数分前。
その日の仕事を終え、そろそろ寝ようかと凝り固まった筋肉を解き解すように大きく伸びをした時だった。
来客を告げるインターホンの甲高い電子音が部屋に響き渡った。驚いて時計を確認すると深夜一時。
まさか、こんな時間に一体誰だろう。
記憶を遡ってみるも、やはりこんな時間に誰かと会う約束を取り付けた覚えは無い。
飛び込みの客だろうか。そうだとしても、こんな常識外れな時間に訪ねてくるような奴が持ち込んでくる仕事など、どうせろくなものじゃないだろう。
無視を決め込むことにし、カーテンを閉めると再度インターホンが鳴らされた。

何としつこい奴だろう。
半ば呆れ気味に溜め息を吐く。
ご丁寧に対応してやるつもりは無いが、せめて傍迷惑な来訪者の顔でも拝んでやろうとドアホンのモニターを確認してみる。
そしてモニターの中に現れた人物を目に留め、息を呑んだ次の瞬間、俺の足はすぐさま玄関へと向かっていた。
勢いよく扉を開くと、その先に居た人物は驚いたようにビクリと体を震わせ、一瞬俺を見た後すぐさま視線を床へと落とした。


「…どうしたの、シズちゃん」


名を呼んでみても、彼は何も言わなかった。
最初は、また何やら訳の分からない言いがかりをつけて俺を殴りにでも来たのかと思った。だが、それにしたら明らかに様子がおかしい。
憎き折原臨也を前にしているというのに、殴りかかるどころかいつもの悪態も罵倒も彼の口をついて出てくることは無かった。
まるで自分自身を守るかのように、小刻みに震える肩を右腕で抱き、薄い唇を強く噛み締めている彼に、いつものような覇気は無くひどく頼り無く見える。
何か用があったからこそこんな時間にわざわざ訪ねて来たのだろうが、一向に口を開く気配が無い彼にもう一度声をかけてみる。
どうしたの。なるべく静かな声音で訊ねてみると、床の一点に固定されていた彼の瞳がユラリと泳いだ。
そうして意を決したように唇を震わせた彼から零れ出た言葉が、冒頭の台詞だ。

人を殺してしまった。
あまりに衝撃的なその台詞は、俺の心に実にすんなりと入り込みストンと落ちた。
こんな日がいずれ来るだろうことが分かっていたからだ。まさかその日がこんなにも早く訪れるとは思ってもみなかったが。


「…とりあえず詳しい話は中で聞くよ。どうぞ」


脇に退き部屋の中を手で指し示すと、少し視線を彷徨わせた彼が戸惑いがちに歩を進ませ室内に足を踏み入れる。
靴を脱ぎ、フラフラと危なっかしい様子でリビングへと向かう彼の背中を眺めていると、自然と口元が緩む。
ようやく来たるべき時が来たのだと、俺は確かな愉悦を感じていた。





部屋へと入った後も、彼はなかなか口を開こうとはしなかった。
とりあえず一番広いソファへと座らせ、人一人分のスペースを空けて彼の隣へと腰を下ろす。
少しでも気を落ち着かせるために淹れた甘めのミルクティーが口を付けられぬまますっかり冷めてしまった頃、彼はようやくポツリポツリと事の顛末を話し始めた。

相当気が動転しているらしく、同じ所を行ったり来たりしたかと思えば急に飛んでしまったりする彼の話を理解するのには些か苦労したが、要約してみるとつまりはこういう事だった。
仕事を終え自宅へと帰る道すがら、いつものように若い男に絡まれ喧嘩を吹っ掛けられた。黄色いスカーフをしていたからもしかすると黄巾族だったのかもしれない。
自分にとっては最早日常茶飯事と化したことだ。仕事を終えた後で疲れていたし律儀に相手をしてやる気も起きず、適当にあしらおうとしたが相手はしつこく絡んでくる。
いい加減鬱陶しくなって、一発殴れば大人しくなるだろうといつものように握り締めた拳で男を軽く殴り飛ばした。だが殴られた男は運悪く、飛んで行った先にあった壁に強かに頭を打ち付け、血を流して動かなくなってしまった。
焦って呼びかけても答えない。ピクリとも動かない。
もしかするとこの時点ですぐに救急車を呼んでいれば、男は助かったのかもしれない。だがもし助からなかったら。男が死んでしまったら。そうすれば自分はただの殺人犯だ。犯罪者だ。
そう考えると、携帯を持つ手が震え番号をプッシュすることすら出来なかった。心に蔓延する恐怖に突き動かされるように、男を置き去りにして逃げるようにその場を去った。
家に帰れば良かったのだが、一人でいると心が潰れそうで、気が狂いそうで恐かった。誰かに一緒に居て欲しかったが、弟や先輩や友達には迷惑をかけることは出来ない。
そうして思い立ったのが俺だったらしい。だから此処にやって来たのだと。

何故彼は、そこで俺を思い浮かべてしまったのか。犬猿の仲であるはずの俺にそんな秘密を明かし、弱みに付け込まれるとは思わなかったのだろうか。
だがそんな突拍子も無い行動も、思い付きで行動する思慮の浅い所も、等しく俺が彼を愛おしく思う要素の一つだ。
全て話し終えた後、少し落ち着いた様子の彼はようやく冷め切ったミルクティーに口を付けた。
だがその細い肩は依然カタカタと震えている。


「シズちゃん、君がその男を殴った現場、誰かに見られた?」
「…暗かった…から、よく分かんねえ…」
「見られたの見られてないの、どっち」
「……見られて、ねえ」
「じゃあ、ここに来る途中で誰かに会った?」
「…誰にも会ってない」
「……そう」


曖昧にお茶を濁していい事柄じゃない。これは至極重大なことなのだ。
どっちつかずの返答をする彼に、語気を強め再度訊ねると、少し戸惑いながらしかし先程よりかは幾分はっきりとした調子で返ってきた返答に満足気に小さく頷いた。
此方の意図が読めないのだろう。隣からソッと俺の様子を伺う彼の瞳が不安そうに揺れる。
ふいにソファに手を付き、一人分空けていたスペースを一気に詰め彼の隣へと座り直すと、細い肩が大袈裟にビクリと揺れた。
肩と肩が触れ合う距離、互いが吐く吐息すらも感じることが出来る距離。そうしてソッと手を伸ばし肩を優しく抱くと、戸惑ったように俺を見つめてくる彼に微笑んでから静かな声音で一言。


「じゃあ、このことは俺とシズちゃんだけの秘密だよ」


俺が言い放った言葉に、彼は驚いたように目を見開き、力が抜けた手からティーカップがスルリと落ちた。
床に叩きつけられたカップが、ガシャンとけたたましい音を立て砕け散る。


「…俺のこと、警察に通報しないのか…?」
「何で?」
「…な、何でって…」
「しないよ。するはずない。だって目撃者が居ないのなら、俺と君が黙っていれば誰にもバレないんだから」


これは俺とシズちゃんだけの秘密だ。
俺は誰にも言わない。君も誰にも言ってはいけない。そうすれば君が犯した罪は誰にもバレない。君の罪が問われることは無い。
一人になるのが怖いのなら、一生ここに居ればいい。外に出るのが怖ければ、いっそのこと仕事も辞めてしまえばいい。
俺が一生君を養い、この世の全てから守ってあげる。君は何も心配せずに、全てを俺に委ねていればいい。
そういったことを、ひたすら優しく安心感を煽るようにゆっくりと言い聞かせると、彼は震える唇でこう尋ねてきた。


「…何で、お前、俺のためにそこまでしてくれるんだ?」


意を決した様子で尋ねてきた彼の問いかけは、愚問としか言い様が無かった。
彼を納得させるために、俺は口を開く。本当は言うつもりなどなかった、大袈裟かもしれないが墓場まで持っていこうと心に決めていた、決定的な言葉を彼に伝えるために。


「…シズちゃんのことが、好きだからだよ」


つい昨日までの彼なら、俺がずっと隠し続けてきたこの気持ちなんてまともに聞いてくれやしなかっただろう。
好きだと伝えた所で「ふざけるな」と一蹴されるか、「気持ち悪い」と引かれるか、2つに1つだったに違いない。
だが、今の俺達は既に今までの俺達じゃない。彼も、俺も、そして俺達を取り巻く環境も。
その証拠に、俺の言葉を聞いた彼は驚いたように目を見開いたあと、顔を伏せた。その瞳からポトリと零れ落ちた涙が床に染みを作る。
そうして小さな声で呟かれた「…ありがとう」という言葉に、俺は自分の気持ちが彼に受け入れてもらえたことを悟ったのだった。








暗い路地裏に足音が響く。彼がバイトの帰りに近道のためにこの路地を通ることはとっくに調査済みだった。
目的の人物が至近距離までやってきたところで、俺はもたれていた壁から身を離し、彼の前へと姿を現す。
ずっと暗がりで潜んでいた俺とは違い、路地に入ってきたばかりで暗さに目が慣れていない彼には恐らく俺の顔は見えていないだろう。


「…何だよ、アンタ」
「やあ、初めまして。思った以上に元気そうじゃないか、怪我の調子はどうだい?」
「……アンタ、誰だ?」


相手の声音が訝しむようなものから警戒したものに変わる。
俺は友好的にニコリと微笑んでみせた。もっとも、その笑顔は相手には見えていないのだろうけれど。


「君も馬鹿なことをするねぇ、あの平和島静雄に喧嘩を売るなんて。それで返り討ちに遭うっていうのも、言ってしまえば至極当然のことで、自業自得ってやつだよ」
「…何言ってんだ?」
「入院したのにたった1日で退院できちゃう程度の怪我しか負わなかったんだから、寧ろ幸運とも言える。あの平和島静雄に殴り飛ばされたっていうのにさ」
「…っおい、何でアンタそんなこと知ってんだ」
「でもまあ、念の為に調べておいてよかったよ。まさか相手が本当に生きてるとは思わなかったけど。いくら血が出てたからと言って、軽い脳震盪で気絶してるだけの人間を死んだと勘違いするなんて、本当にシズちゃんは大事なところで抜けてるっていうか、何て言うか。まあ、そういう馬鹿なところが可愛かったりもするんだけどさ」
「…おい、聞けよ!アンタ誰なんだよ!」


焦ったように張り上げられた声が震えていた。
その甲高い声は思った以上に路地に反響した。ここで騒がれて誰かに見られでもしたら、事だ。余計なお喋りはここまでにしておこう。


「俺が誰であろうが、そんなことはどうでもいいんだよ。君には関係のないことだ」


コートのポケットから折り畳み式のナイフを取り出す。
相変わらず相手から俺の顔はよく見えていないだろうが、鈍く光ったナイフの刃は彼の目にも止まったらしい。ヒッと喉が引きつったような声が小さく漏れた。


「ただ、君に生きていられると困るんだよね、俺が」







こんな仕事をしているお陰で、有り難いことに世間に怪しまれず遺体を処理することが出来るルートというものも知り得ている。
面倒なことはその道のプロに任せることにして、俺がすべきことは凶器の始末だけだ。そちらは、ほとぼりが冷めてから手を付けることにして、とりあえず刃に貼り付いた血を丁寧に拭き取ってからビニール袋に入れ、再びコートのポケットへと忍ばせた。
部屋へ帰り、リビングへと続く扉を開くと、その音に反応してソファに座りこんでいた彼がパッと顔を上げた。
ただいま、と声をかけると先程まで不安そうな顔をしていた彼の表情が途端に安心したように綻んだ。


「俺が出掛けている間、誰も訪ねてこなかった?」
「来てねえ」
「電話は?」
「…多分、2回くらいかかってきた」
「出てないよね?」
「ああ」
「…そう、それでいいよ」


褒めるように頭を撫でてやると、彼は嬉しそうに目を細めた。
あの日以来、彼はずっと俺の部屋に居る。無理強いはしないけれど、警察の目が既に君に向いているかもしれないから極力外に出ないほうがいい、と助言してやるとそれを素直に聞き入れた彼は仕事を辞めた。俺の部屋に居る間、誰かが訪ねて来たり電話がかかってきたりしても、絶対に出てはいけない。俺のその言いつけも彼は実に忠実に守り続けている。
彼が俺のもとに居ることを、誰にも知られてはいけないのだ。そうしたらきっと全てがバレてしまう。この異常な生活のおかしさに気付かないのは、恐らく彼自身だけだ。


「いいかい、シズちゃん。君がしたことは決して許される罪じゃない。君が罪に問われれば、滅茶苦茶になるのは君の人生だけじゃないんだ」


彼が溺愛している弟、そして彼の家族。彼が愛する人たちも一緒に世間の好奇の目に晒されることになる。
そういったニュアンスを含め言葉を吐き出すと、俺の言わんとしていることが分かったのだろう彼の顔が辛そうに歪められる。

恐らくこれは神様が俺にくれたチャンスなのだ。
だからこそ俺はこの好機を手放すつもりなど無いし、何に変えても俺はこの幸せに縋り付いてみせる。その変わりに失うものなんて、例えそれが何であれ些細な犠牲だ。
薄く涙の膜が張った彼の潤んだ瞳が俺を捉える。その視線に、背筋にゾクゾクと言い知れぬ幸福感が這い上がってくるのを感じた。
ああ、愛してやまない人に頼られ縋りつかれ生きていくというのは、何と甘美なことなのだろう!
そうして俺は、犯してもいない罪に怯えながら小さく震える愛しい身体を抱き寄せ、彼を安心させるために極上の台詞を口にするのだ。


「大丈夫だよ、シズちゃん。俺が君を守ってあげるから」








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