これの続き





彼に初めて会ったとき、とても綺麗だと思った。
男にしては細すぎる体格に度重なるブリーチで軋んでしまっている金髪は、お世辞にも綺麗だと形容できるものでは無かったけれど。
それでも俺は初めて彼を見て何の迷いも無く真っ先に「美しい」という単語を思い浮かべた。
彼は平和島静雄と名乗った。彼を紹介してきた新羅は「名前負けしてるよね」と笑っていた。
俺も一緒に笑顔を浮かべはしたが、その実全く正反対のことを考えていた。彼にぴったりの名前だと。
うるせえよ、と新羅に食ってかかった彼の金髪が陽を浴びてキラリと光った。自覚は無かったし気付きもしていなかったが、俺はこの時既に彼に恋をしていたのかもしれない。


***


学校が終わり家路を辿る俺の足は重い。
用も無いのに本屋に立ち寄ったり公園で時間を潰したり無駄に回り道をしたり、とにかくゆっくりと時間をかけて帰った。
こんなことをしたって無意味だ。そんなことは分かっていたが、家に居る時間を少しでも減らしたかった。
俺にとって自宅とは地獄でしかなくて、家族は悪魔そのものだった。家に居る時間はただひたすら苦痛だった。
家庭事情を誰かに話したことはない。新羅ですら知らない。誰かに話して下手に同情されるなんて御免だった。

いくら時間をかけて帰ったところで足が自宅に向かっている限り、いつかは必ず辿り着いてしまう。
とっぷりと日が暮れる頃、とうとう玄関の前に着いてしまった。胸にずしりと伸し掛かる重い気持ちを抱えながらドアノブに手をかける。
ドアを開くと、すぐさま耳を塞ぎたくなるような甘ったるい声が聞こえてきた。
母親の寝室から鳴り響くその声は最早俺の日常と化してしまった。
だが日常生活の中のBGMにしてしまうにはそれはあまりにも不似合いだ。
いい、だとかもっと、だとか甲高い母の喘ぎ声に混じり時折聞こえてくる低い男の声は、毎日違うものだった。一昨日も、昨日も、今日も、そしてきっと明日も。
一体どこで見つけてくるのかと思うほど来る日も来る日も相手を変え、母は寝室で乱れ狂う。

父と離婚して俺を引き取り一人で育てるようになってから母はおかしくなった。
毎日育児に追われ、遊びにいくことも出来ない、お洒落を楽しむことも出来ない、女として生きる時間が無い。
緩やかにだが確実に母の心の中に蓄積されていったフラストレーションはある日を境に爆発した。
母は俺を見なくなった。話しかけることもなくなった。俺が話しかけても返事をしなくなった。俺をまるで存在していないものかのように扱った。毎日違う男を部屋に連れ込みセックスに溺れるようになった。
離婚した父から毎月支払われている養育費は、母の服や化粧代へと変わった。俺の為に支払われているはずの養育費が本当に俺の為に使われたことはきっと今まで一度も無い。

耳を塞ぐ。両耳に強く手を押し当てても母の声は鳴り響く。
母の喘ぎ声を聞く度、どうしようもなく吐き気がした。気持ち悪くて仕方なかった。
まだ家族3人で幸せに暮らしていたときは優しい母親を演じていた彼女の、女としての生々しい一面なんて知りたくはなかった。
自分の部屋へと駆け込み、ベッドへ潜り込み頭から毛布を被る。まだ母の声が聞こえる。本当に聞こえているのか、鼓膜にこびり付いて離れないのか、最早それすら分からなかった。
ただこの家に俺の居場所は無い。それだけは確かだった。


***


いつの間にやら、下校時はシズちゃんと一緒に帰るのが日常になっていた。
シズちゃん(彼をこう呼ぶようにしたら最初は少し顔を顰められたが、今は慣れたのか許してくれたのか何も言われない)のお陰で、憂鬱でしかなかった帰り道も幾分マシなものになった。
学校も、家も、俺にとってはただ息苦しく苦痛な場所でしかなかった。
学校では真面目な優等生という型枠に押し込められ、俺自身も皆が求める折原臨也というキャラを演じるしかなかった。誰も本当の俺なんて知らない、知ろうともしない。
家に帰ったって俺を見る人は誰もいない。居場所なんて何処にも無い。
色褪せて見えるこの世界で、ただシズちゃんだけがキラキラと輝いて見えた。俺の心の拠り所だった。
彼は俺を変な色眼鏡で見たりしない。折原臨也というキャラクターを押しつけてきたりしない。ただ純粋に俺を、俺の内面を見てくれるのだ。
「空を飛びたい」
いつだったかシズちゃんとそんな話をした。脈絡もなくそんなことを言い出した俺をシズちゃんは怪訝な顔で見つめていた。
「今、馬鹿にしたでしょ」
「してねえよ」
「いいんだ、別に。夢見るのは勝手だからね」
空を飛びたい、というよりは飛ぶための翼が欲しいんだ。飛んで、飛び立って、こんな馬鹿げた世界から逃げ出すための翼が欲しいんだ。
シズちゃんのようにキラキラと輝く人や物で溢れ返った世界。そんな世界が何処かにあるだろうか。俺はそこに行けるだろうか。
馬鹿げた考えだった。でも、俺は至って真面目にそんなことを考えていた。


***


シズちゃんに彼女が出来た。
顔を何度か見たことがあるだけ、名前も知らない、相手はそんな子だった。それは恐らくシズちゃんにとっても同じだろう。
ただ向こうが一方的にシズちゃんのことを好いていて、そしてある日とうとう告白した。そしてシズちゃんはそれを受け入れた。たったそれだけのことでシズちゃんと何の関わりも持っていなかったその子がシズちゃんの彼女という最も特別なポジションへと納まったのだ。
その頃の俺はとっくにシズちゃんへの恋心を自覚していて、少しはにかみながら彼女が出来たことを報告してきた彼に対して感じたショックの大きさは計り知れない。
だが俺には彼に想いを伝える勇気なんて無かった。想いを伝えたところで、彼が出来たての彼女を差し置いてまで俺の好意を受け入れてくれる自信なんてものもある筈が無かった。
だから俺に残された道は1つしかない。引きつる口元を何とか抑えて、しかし何ともぎこちない笑顔で、こう一言。
「良かったね、おめでとう」


***


ある日の朝のことだった。
学校へと行く支度をして玄関を出ようとした俺に母親が声をかけてきた。名前を呼ばれるのなんて何ヶ月振りだろう。それどころか同じ家に住んでおきながら言葉を交わすことすらここ数ヶ月無かったのだ。
驚いて思わず振り返ると、少し照れたような何ともいえない顔をした母親がそこに居た。嫌な予感がした。胸の奥のほうがザワザワと騒ぎ立てる。
「あなたに紹介したい人が居るの」
はにかみながら告げられた母親の言葉を合図に、リビングから見たこともない男が1人出てきた。眼鏡をかけた柔和な顔立ち。口元に湛えられた微笑が何とも癪に障った。
「お母さん、この人と再婚しようと思うの」
隣りに立つ男と顔を見合わせた母親が頬を赤らめる。そして伺いを立てるようにもう一度俺のほうをチラリと見遣る。
「今まで母親らしいことしてきてあげられなくてゴメンね、でもこれからはお母さんしっかり頑張るから」
ああ、なんという裏切りだろう。今更だ。全てが今更すぎる。今まで散々好き勝手してきたくせに、今更また母親面をするなんて。
お前は知らないだろう。俺が今まで一体どんな思いで毎日を過ごしてきたのか。家に居る間、どれほどの苦痛を味わったか。毎日毎晩激しくベッドが軋む音と母親の喘ぎ声を聞きながら日々を過ごした息子の気持ちが、お前に分かるか。俺はお前を既に母親だとは思っていない。母親なんかじゃない、ただの一人の女だと思い込み毎日をやり過ごしてきたというのに。
お前は、また。また、俺にお前を母親だと思えとそんな身勝手な気持ちを押しつけるのか。今更また、善人面をしようというのか。
気持ちがスーッと冷めていく。指先が冷たい。足の感覚が無い。今自分が立っているのか、それとも倒れ込んでしまっているのか、そんな感覚すら曖昧だった。
「遠慮しないで、本当の父親だと思って頼ってくれていいんだよ、臨也くん」
そう言った男の声は、寝室から漏れる母親の喘ぎ声の合間に何度も聞いたことがあるものだった。


***


朝の胸糞悪いあの会話をどこで切り上げてきたのか分からない。
俺は気づけば、学校の校門の前に居た。
どうにもやりきれない気分だった。腹の底に溜まっている感情が、怒りなのか悲しみなのか絶望なのか、自分自身でも答えが見付からない。
ただ気を抜くと込み上げてくる吐き気に、気が狂いそうだった。頭の中に手を突っ込まれ滅茶苦茶に脳みそを引っかき回されたかのように、思考回路がグチャグチャだ。
正常に働かない脳内は、それでもただ一つの道を照らし出す。俺は考えるよりも早く駆け出していた。
シズちゃんに会いたかった。俺の、たった一筋の光である彼に。
会って話を聞いてもらって、そして慰めてもらいたかった。いつもの力強くそして魅力的なあの笑顔で。「気にするな、元気出せよ」と肩を叩いてほしかった。
教室に彼は居なかった。彼を探し求め滅茶苦茶に走り回った。そしてようやく裏庭で見慣れた金髪を見つけ、更に足を早める。彼まで残り数メートルといったところで俺の足は止まった。
シズちゃんの隣りには、恋人である女の子の姿があった。何を話しているのかは分からないが、2人とも何やら楽しそうに他愛ないじゃれ合いを繰り返していた。
ふいに彼女が背伸びをする。そして背が高いシズちゃんの首元に腕を絡め、その唇にキスをした。舌を絡め合うような深いキス。唇が離れたあと、彼女は笑った。シズちゃんも驚いたような顔をしたあと照れ臭そうに笑った。

その瞬間、ギリギリのところで均衡を保っていた俺の心が音を立てて崩れ落ちた。そんな気がした。
恋人同士なのだから、当然キスもする。セックスだってするだろう。彼女はシズちゃんに抱かれ、そしてシズちゃんは彼女を抱くだろう。
分かっていたはずなのに、実際に目の当たりにすると急にその光景がまるで瞼の裏に浮かぶようにリアルに構築された。
毎日毎晩ただ自分の欲を満たすだめだけに男を連れ込んでいた母親のお陰で、俺はセックスが愛を確かめ合うだなんてそんな綺麗事で片付けられる行為ではないことを知っている。
最早俺の中でセックスという行為は、汚く、卑しい、最低ランクの性を象徴するものでしかない。
そんな愚行を、あのシズちゃんがしているというのか。ベッドの上で俺の母親のようにだらしなく喘ぐ彼女に覆いかぶさり、今朝紹介されたあの偽善者の男のように彼女を抱くというのか。
吐き気がした。息が詰まりそうだった。気持ち悪い。気持ち悪い。
無邪気に微笑み合うシズちゃんと彼女が、何だか俺とは違う生き物のように思えた。
あんなにキラキラと輝いて見えたシズちゃんが、急速に色褪せていく。
踵を返し彼らに背を向けると振り返ることもなくゆっくりと歩を進めた。
たった一筋射し込んでいた光は消え、俺の世界は真っ暗になった。もう全てがどうでもよかった。
母親も、これから父となるだろうあの男も、シズちゃんも、その彼女も、そして俺自身も。
何か大切なものが心から零れ落ちた気がした。そしてその代わりに今まで感じ得なかった、もしくはずっと心の奥へと押し込めていたのかもしれない新たな感情が湧きあがってきた。


その日、折原臨也の世界は壊れた。