放課後の図書当番は部活動をしていない生徒に割り振られるため、回ってくるのが極端に早い。
基本的に1日おきで回ってくるため、初めてあの先輩の名前を知った日の翌々日、早くも自分の番がやってきた委員の仕事を遂行するため気だるい気持ちを押し込めながら重い足取りで図書室へと向かうと、いつもの特等席に既に先輩がやって来ていた。
ただ、いつもと違うのは先輩が本に没頭しているのではなく、机に突っ伏して規則正しい寝息をたてていたこと。


「…寝てんのかよ」


寝るくらいならわざわざこんなとこ来てねえで家帰って寝ろ。
ぶつくさと文句を垂れながら、傍らに立ちその寝顔を眺めてみる。
本を読んでいる途中で寝てしまったのだろうか。中途半端な形で投げ出されている文庫本を手に取り、読みかけらしい箇所にカバーを挟んでおいてやることにする。


「…この人、よく見りゃ綺麗な顔してんだな」


マイナスのイメージしか抱いていなかったので、ガンを飛ばすことはあったとしても、こうまじまじと顔を見つめたことなど今まで無かった。
閉じられた瞼を縁取る睫はまるで女のそれのように長く、顔に濃い影を作り出している。
額にサラリとかかる黒髪は、度重なるブリーチのせいで軋んでしまった自分のものとは違い、流れるように艶やかだ。
彼女は居ないなんて言っていたが、かなりモテそうな容姿をしているのに本当だろうか。
まあ彼女が居ればこんなとこに来ないだろうと言っていたこの人の台詞は最もなのだが。
…どちらにせよ、俺には関係のないことだ。


「…ん?」


ここで初めて、先輩が眼鏡をかけたまま寝てしまっていることに気付いた。
こんな格好で寝ていては眼鏡のフレームが歪んでしまうんじゃないだろうか。
…外したほうが、いいよな。
この人の眼鏡なんてどうなろうが知ったこっちゃないが、気付いてしまったのに気付かなかったフリをするのも気分が悪い。
親切心のつもりで、先輩の眼鏡へと手を伸ばす。
その瞬間、まるでタイミングを見計らったかのように閉じられていた先輩の瞳がパチリと開かれた。
それに驚き手を引っ込めるよりも早く、伸ばされた先輩の手に腕をぐいと引っ張られ、不意を突かれた俺の身体はぐらりと傾く。


「…っ、う、わっ!」


ドサリ、と机に倒れ込んだ俺の身体に、すかさず上から伸し掛かるように先輩が乗り上げて来る。
まるで押し倒されたかのような体勢にドキリと胸の鼓動が撥ねた。
起き上がろうとした俺の腕を押さえつけ、表情の無い瞳で俺を見下ろす先輩の眼鏡が夕陽を反射してキラリと光った。
そのまま徐々に先輩の顔が近づいてくる。そんな、まさか、嘘だろ。
恐らく数秒後に起きるだろう事態を想像して、俺はぎゅっと固く瞼を閉じた。


「…なーんてね」
「………、は?」


予測していた感触はいつまでたっても己の唇には降ってこない。
恐る恐る瞼を開いて見ると、鼻先がくっ付いてしまいそうなほど近距離にある先輩の表情はしてやったり顔。
むに、と唇に押しつけられたのは人差し指の感触。
暫しポカンとしていた俺は、数秒後全てを悟った。からかわれたのだ、と。
その直後に湧いてくる感情は怒り、怒り、怒り。ただそれだけだった。
何を考えているんだ、この男は!ふざけるにしたって物事には限度ってものがあるだろう!


「っ、てめっ…、ふざけてんじゃっ」
「ここで静雄くんに問題です」
「ねぇ、って……は、はあ?」


感情に任せて叫んだ俺の怒声は、言い終わらぬ内にいやに冷静な声音で被された先輩の台詞によって、あっさりと掻き消された。


「俺は何でこうも毎回、貴重な放課後を潰してまで図書室に足を運んでいるのでしょうか?」


少し小首を傾げながら先輩が尋ねてくる。
何を今さら馬鹿げたことを。問題にすらなっていないじゃないか、そんなもの。
「本が読みたいからだろ」と自信たっぷりに言い放った俺の回答は「残念、ハズレ」と事も無く一蹴されてしまった。
自信があっただけに、この回答を違うと言われてしまっては早くも手詰まりだ。
というより、本が読みたい以外に図書室に通う理由なんてあんのかよ。
ていうか、コイツいつまで俺の上に乗っかってるつもりだ。さっさと退けよ、畜生。
不自然な体勢のせいもあり、全く回らない頭を抱えて黙り込んでしまった俺を見て、「じゃあヒントね」と先輩はゆるりと微笑んだ。


「ヒントその1。俺はさほど読書好きではありません」
「は?」


ぴん、と立てられた先輩の人差し指を眺めながら俺は目を丸くした。
本が好きじゃないなら、何でこの人は毎回毎回図書室なんかにやって来て閉館ギリギリまで居座ってやがったんだ。
ヒントどころか、これじゃ余計に問題がこんがらがっただけだ。


「ヒントその2。俺は静雄くんが図書当番をしている日にしか来ていません」


君は俺が毎日図書室に足を運んでいると思っていたかもしれないけど、と先輩は小さく笑った。
確かにその通りだ。俺が当番として入っているとき先輩は必ずと言っていいほど、いつものあの席で本を読んでいたしきっと俺が図書室に来ていない時もそうしているのだろう、と。
だがそれが違うとなると、俺の頭に渦巻くのは疑問ばかりだ。
この人が、俺の当番の日を見計らって図書室にやって来る理由なんて一つも見つからない。
特に親しいわけでもない。会話を交わしたことも殆ど無い。名前だって一昨日初めて知ったくらいだ。
…待てよ、この人はさっきから当然のように俺の名前を呼んでいる。さも親しげに「静雄くん」と。
だが俺はこの人に自己紹介した覚えなんて全く無い。
ならこの人は、何で俺の名前を知ってるんだ。


「…ヒントその3」


訳が分からず呆然としている俺にゆるりと微笑んでから、先輩はかけていた眼鏡を外し、ごく自然な動作でそれを俺の顔へと運んだ。
両耳にかけられたフレームの感触。思わず固く閉じた瞼をゆっくりと開くと、そこには普段と何ら変わらぬ視界が広がっていた。
視力2.0を誇る俺の視界は、眼鏡をかけられているにも関わらず少しも歪まない。
気の所為かと思い、咄嗟に目元へ伸ばした指の先には固いレンズの感触。確かに俺は先輩の眼鏡をかけている。
これは度が入っていない、ただの伊達眼鏡だ。その事実に気付くのに数秒の時を要した。


「………ッ!」


気付くと同時に、全てを理解した。
大して本が好きでもないこの人がいつも図書室に来る理由も、俺が当番の時だけ足を運ぶ理由も、今こうして押し倒されている理由も、先程の問題の意味も、何もかも。
本を読んでいる途中に眼鏡を外すあの仕草も、その時にやたらと視線が合う気がしたのも、気のせいなんかじゃなかった。俺のことなんかどうせ見えてやいないだろうと高を括っていたのも多大な勘違いだった。

カモフラージュの為にわざわざ伊達眼鏡なんてかけて、もともと悪くもない視力を装って、この人はずっと、俺のことを見ていたんだ。


「………あ、の…」


理解すると同時に顔に熱が集まる。体温が一気に上昇して、喉がカラカラだ。
やたらと鳴り響く心臓の鼓動が五月蝿くて、ちゃんと自分の喉から言葉が零れ出たのかどうかすら分からない。
口に溜まった生唾をゴクリと飲み込む音だけが、やけに大きく響いた。


「さっきの問題の意味が分かったら、答えを聞かせて。…次に会うまでの宿題だよ」


それまでこれは預けておくね、と軽く触れられた眼鏡がカタリと揺れた。
くるりと背中を見せた先輩の足音が遠ざかっていき、図書室の扉が閉められる音が静かな室内に響くまで俺はその場を動くことが出来なかった。
夕焼け色に染まる部屋の中、壊れてしまいそうなほどに高鳴る胸に手を当ててみるが、鼓動のリズムは治まるどころかより一層速まるばかりだ。
先輩に触れられた箇所がじんじんと熱を持つ。痛みにも似たその感覚が辛くて、ぎゅっと瞼を閉じてみた。

気を抜くとたちまち胸を焦がしそうなほどに湧き上がってくるこの感情が一体何なのか、俺はまだ知らない。










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