「明日、何かあんのか?」 仕事終わりに訪れた臨也の部屋で、俺用に甘く作られたカフェオレを飲みながら、まどろむ意識のなか何気なくテーブルに置かれた卓上カレンダーに目をやると、明日の日付にサインペンで赤丸が書かれていた。 普通に平日だし、何か特別な行事でもあっただろうかと考えを巡らせながら、深い意味もなく軽い気持ちでただ何となく訊ねると、直前まで忙しなくカタカタとパソコンのキーボードを叩いていた臨也の指が止まった。 ふいに止んだ小気味いい音を訝しみ目線を上げると、仕事の時だけかけることにしているらしい銀フレームの眼鏡の奥で瞳を丸くしている臨也の顔。 「…なんだよ、何か変なこと言ったか?」 「………いや、別に」 そして、ふいと目をそらして再びパソコンに向かい始めた臨也はどことなく困り顔だ。 何か変なことを言っただろうかと数秒前に自分が吐き出した言葉を順に思い返してみるが、やはり特に気に障るようなことを言った覚えは無い。 カタカタと響く音のなか、「明日は大事な仕事があるんだよ」と臨也が呟く。 俺は普段臨也が何をしているのか知らないし、正直なところ情報屋という仕事が一体何をどうして金を稼ぐ職業なのかも殆ど知らない。 だから、俺には到底理解できないほど大事な取引があるのかもしれないし、今後の仕事生命に関わるような重要人物と会うこともあるかもしれない。つまりは、明日はそういった大事な約束があるということなのだろう。 適当に納得してカフェオレを飲み干す俺を余所に、小さな声で「…シズちゃんって本当馬鹿」と呆れ気味に呟く臨也の声が聞こえたが何故今このタイミングでそんなことを言われるのかも分からないし、変に噛みつく気も起きず聞き流すことにした。 翌日、仕事の最中にトムさんが缶コーヒーを奢ってくれた。 容赦なく吹き荒ぶ寒風に晒されている身体には有り難かったが、いくら先輩といえど何の意味もなく奢らせるのは気が引けたので財布を取り出すと、トムさんが人のいい笑顔を浮かべながらポケットに伸びた俺の手を制する。 「いいって、一応プレゼントってことでよ。こんな安いもんで悪いけどな」 「プレゼントって、何のッすか」 「……え?」 缶コーヒーの熱で手を温めながら疑問を投げかけると、途端にぴしりと固まるトムさんの表情にデジャブを感じた。 何だろう、これと同じような顔をつい最近見たような気がする。ああ、昨日の臨也だ。 思い出せずモヤモヤと胸に絡んだ気持ちがスッキリとしたのも束の間、また新たな疑問が湧いてくる。 臨也といいトムさんといい、俺が何気なく言った事に対し何故そんな顔をするのか、だ。 俺が知らないだけで、もしかすると今日は何か特別な行事でもある日なのだろうか。 頭を悩ませてみるも、答えは出てこない。 難しい顔をして首を捻る俺を見て、トムさんが恐る恐るといった風に口を挟んできた。 「…静雄、お前もしかして今日が何の日か分かってねえのか?」 「いや、思い出そうとしてるんスけど…、何かありましたっけ?」 「…何かあったっつうか、何というか…」 「何スか、教えて下さいよ」 「いや、だからさ…お前、今日誕生日だろ」 「…………あ」 そうだ。そういえば、そうだった。 昨日、臨也の家で見たカレンダーを思い出す。赤丸が付いていた今日の日付は確か1月28日。自分の誕生日だった。 「お前、マジで忘れてたのか?」 「いやだって普段カレンダーとか見ねえし…そもそも今更誕生日にはしゃぐ年齢でもないでしょう」 「そりゃまあ、そうだけどよ…」 呆れ気味に溜息を吐くトムさんを尻目に、全ての疑問が解決したことにソッと胸を撫で下ろす。 しかし今日が自分の誕生日ということに気付くと同時に、臨也のことが妙に気になりだしてしまった。 昨日、臨也は今日は大事な仕事があると言っていた。それは、俺の誕生日よりも大事な仕事なのだろうか。そもそもアイツは今日が俺の誕生日だということをちゃんと覚えているのだろうか。 臨也はああ見えて何かとイベント事が好きな奴で、いつもクリスマスだとか付き合い始めて1ヶ月の記念日だとか、お前は女子かと突っ込みたくなるほど何かにつけてすぐ祝いたがるような奴だ。 そんな臨也が誕生日という一大イベントに一切の興味を示さないなんて、そんなことがあるんだろうか。 本当に忘れてしまっているのか、もしくは誕生日を祝う気も起きないほど俺に対する興味が消え失せたか。 …どちらにしろ、アイツの俺に対する想いが著しく低下している事実に変わりは無い。 一つの事実に直面して途端に暗くなった俺の表情に気付いたトムさんに、慰めようとしてくれているのかポンと肩を叩かれた。 「どうだ、静雄。なんなら今日は久しぶりに飲みでも行くか?奢ってやるからよ」 「……いや、今日はいいッス。すみません」 普段なら喜んで行く所だが、今は正直そんな気は起きなかった。 不快に思われないだろう最低限の笑みを浮かべて誘いを断ると、「そうか?」とトムさんが眉を少し下げる。 先輩に気を使わせていることを申し訳なく感じながらも、無理に明るく振る舞う気も起きなかった。 誕生日よりも仕事よりも先輩よりも他の全てのことを差し置いても、何より臨也のことが気がかりだった。 仕事を終え、そこからどうして帰ったのか殆ど記憶が定かじゃないが、気付けば俺は自宅の扉の前に居た。 あからさまにショックを受けている自分を馬鹿らしく思いながらも、あれこれ理由を付けてみたって結局この胸にわだかまる悲しみや寂しさは誤魔化せない。 俺の誕生日だってのに、お前は今一体どこで何してるっていうんだ、この馬鹿野郎。 いくら罵っても、その声に答えてくれる相手は居ない。深くため息を吐き出しながら、ドアノブに鍵を差し込みガチャリと扉を開く。 部屋の中の冷たい空気に肌を刺されながら、フラフラとした足取りで玄関を跨ぐ。 もう今日はさっさと寝てしまおう、と暗い部屋に灯りを点すため壁際のスイッチへと伸ばした手が、何か生温かいものに触れた。 ぎょっとして首を捻るよりも早く、その生温かい何かに掴まれた手がぐいと引っ張られ、バランスを崩した俺の身体がそれと共に床に倒れ込む。 暗い部屋の中で顔も何も見えないが、背中に回された手に身体を抱きすくめられ、その体温と匂いで俺は目の前の人物が誰なのかいとも簡単に分かってしまった。 「帰ってくるの遅いよ、シズちゃん。…待ちくたびれちゃった」 「…っ、い、ざやっ…」 ここに居るはずのない人物に驚きで目を見開きながら、口を開こうとした俺の唇が臨也のものによって塞がれる。 触れるだけのキスを何度も交わされ、何度目かのキスのあとようやく解放された唇で必死に空気を取り込みながら顔を上げると、暗闇に慣れてきた視界で臨也が微笑んでいるのが分かった。 「シズちゃん、今日が何の日か分かってる?」 「…お前、忘れてたんじゃなかったのかよ」 「忘れてたのはシズちゃんでしょ。こんな大事な日を俺が忘れるわけないよ」 「……仕事って、言ってた」 「恋人の誕生日に仕事入れるなんて野暮なことするわけ無いじゃん。シズちゃんがすっかり忘れてるみたいだったからどうせならサプライズにしようかなって、俺も忘れたフリしただけ。…びっくりした?」 「………」 確かに心臓が止まるかと思うほど驚いた。だがそれと同じくらい寂しかった。 なんて、こっ恥ずかしいことを言ってやる気は起きないが。 お前に嫌われたかと思って昼飯のハンバーガーが喉を通らないほど寂しかったんだからな!いつも欠かさず飲むシェーキを飲む気も起きないほどショック受けてたんだからな! なんて、誰が言ってやるものか。そんなのどうせこの馬鹿を無駄に喜ばせるだけだ。 俺にこんな思いをさせやがったノミ蟲野郎に、そんな過剰サービスをしてやる気なんてこれっぽっちも起きやしない。 次第にイライラしてくる気持ちを抱えながら、もう明かり点けていいよ、と言う臨也をブン殴りたい衝動をどうにか抑えスイッチへ手を伸ばす。 途端に明るくなった照明の光に目が眩み、一瞬視界が真っ白になる。徐々に明るみを取り戻してきた視界の端に、俺の部屋にある筈の無い奇妙なものが映った。 「な、なんだこれ…」 軽く1メートルは越すほどの巨大なテディベアが部屋の端に我が物顔でデンと鎮座していた。 もちろん今朝俺が家を出るまではこんなもの置いてなかったし、頼んだ覚えも無い。 「シズちゃん、その図体で意外に可愛いもの好きでしょ?だから、こういうのも好きかなって」 「お前…、これ自分で買ったのか?」 「勿論。店員さんには超見られるし、ここまで持ってくる途中も通行人に超見られるし、かなり恥ずかしかったよ」 「……ぷ」 「笑わないでよ、俺がそれだけシズちゃんを愛してるってことを証明するような行為なんだからさ!」 「大袈裟だな」 1メートル以上あるこの馬鹿でかいテディベアを抱えながら池袋の街並みを闊歩する臨也の姿を想像すると、どうにも滑稽で思わず笑いが零れる。 だが、確かに可愛いものは可愛い。 ふさふさとした黒い毛の奥に、丸く赤い瞳がくりっと光る。何とはなしに柔らかい感触のその頭を撫でていると、誰かを彷彿とさせる、テディベアにしては珍しいカラーリングに気付き首を捻らせた。 「…なあ、これってもしかして…」 「ああ、オーダーメイドだよ」 「やっぱりか」 「俺と会えない間もシズちゃんが寂しい思いしないように、ね。俺だと思って可愛がってね」 「…馬鹿じゃねえの」 誰が寂しがるかよ自惚れんな、と言ってやりたい所だったが、現にコイツに嫌われたんじゃないかという疑念にとりつかれ数分前まで落ち込んでいた己の口からは、いくら強がりといえどそんな嘘は口に出来そうもなかった。 否定も肯定もしていないが、暗に肯定していることが容易くバレてしまうだろう返事をぶっきらぼうに返すと臨也が軽く笑い声をたてた。 「来年の誕生日も一緒に祝おうね、シズちゃん」 何かイベント事をこなす度に臨也が必ず口にするこの台詞は、俺をひどく安心させる。 来年もまた一緒に祝おうと。来年のこの時期もまた一緒に居ようと。 愛されているという実感が身体中を駆け巡り、例えようも無い安心感に胸が暖かくなった。 身代わりだというのなら、明日この熊に着せるための黒いコートを買ってこよう。そうしたほうがより本物に近付いて愛しく思えるだろうから。 こっそりと明日の予定を立てる俺の思考は、再び腕を伸ばして抱きしめてきた臨也に今度は触れるだけでは済まされない深いキスをされたことによって、そこで中断された。 |