折原臨也が死んだらしい。


そんな噂話を初めて耳にしたのはつい先週。
仕事の合間に入ったファーストフード店で隣の席に座っていた若い男達の世間話。
騒がしい店内で流れている有線放送と共に耳に入ってきたその噂を初めて聞いたときは、一笑に付するしかなかった。
死んだって、冗談だろ。アイツがそうあっさり死ぬようなタマならこっちだって長年苦労してきていない。
何が火種になってそんな噂が流れているのかは知らないが、何だかんだ言ってどうせすぐ何も無かったかのように俺の前に姿を現していつものようにうざってえ戯言を喋くって俺を激昂させるに違いない。
そう高をくくってせせら笑っていたというのに。
それから1週間が経っても、奴は姿を現さなかった。



加速度的に広まっていく噂。
誰かに刺されただとか、自殺しただとか、交通事故に遭っただとか、色々な憶測が飛び交っていたがそんなものに興味は無かった。
俺の心に重く伸し掛かるのは、あの折原臨也が死んだ。その事実だけ。

何を落ち込むことがある?
俺はアイツのことが嫌いだったはずだ。そりゃもうさっさと死んじまえってぐらいに嫌いだったはずだ。
アイツだって人様に顔向けできないような数え切れないほどの悪事を働いてきたからこそ、刺されたんだか事故ったんだか知らないが、こうしてアッサリ死んじまったんだ。
自業自得じゃねえか、ざまあみろ。ああ、せいせいした。
いくら自分自身にそう言い聞かせてみても、ずしりと伸し掛かる重みは消えない。
まるで腹の底に石を入れられたかのように体が重い。心臓を鷲掴みにされたかのように胸が痛い。
畜生、何だってんだイライラする。

がしがしと頭を掻き毟って何本目か分からない煙草に火をつける。
煙を肺いっぱいに吸い込んでまるで深呼吸をするかのように深く吐き出してみたが、気持ちは一向に落ち着かなかった。
…もう、帰ろう。
座っていたベンチから立ち上がると、冷たい風が頬を撫でた。
心に充満する無力感には気付かないフリをして、機械的に一歩ずつ足を踏み出す。
少しでも気を抜くとすぐ脳裏に浮かび上がってくるのは、いずれも臨也のことばかりだった。
畜生、畜生、畜生。
瞼の裏にこびりつくアイツの顔を振り払うかのように、大きく首を振った。

すると、一瞬だけ視界の端に映った黒。
見間違いかと思った。だって、そんなことあるはずがない。
馬鹿なと思ったが、頭で考えるよりも早く俺の足は勝手に駆け出していた。
見慣れた背中に追い付いて、声もかけずに強くその腕を掴み取ると、びくりと身体を震わせたソイツが弾かれたように此方を振り返った。


「っ、びっくりしたっ…て、げっ、シズちゃん」


大げさに眉を歪ませてソイツは、臨也は、俺の名を呼んだ。
俺を。臨也しか使わないふざけた呼称で。俺を、呼んだのだ。
呆然としている俺に気付いた臨也が、今度は眉を潜めて首を傾げながら俺の顔を覗きこんできた。


「どうしたの、シズちゃん馬鹿みたいな顔して。今日はいつもみたいに自販機とか投げてこないの?」
「っ、臨也…おまえ、なんでっ…」
「何でって何が?」
「お前、死んだんじゃ…」
「はあ?」


俺が死んだって何それウケる、じゃあ今君の目の前に居る俺は何だっていうの?
完全に馬鹿にした様子でべらべらと言葉を紡いでいく臨也が、ふと何かに気付いたようにわざとらしくポンと手を打った。


「ああ、そういや先週池袋で誰かに刺されてさ。それが思ったより傷が深くて、昨日まで入院してたんだよね。そういえばそれが発端でここ最近俺が死んだって噂が流れてたんだって?一体誰がそんな嘘八百言い出したんだろうね。本当、面白いよ人間ってやつは」


まるで機関銃のように次から次へと捲し立てる臨也の話は、途中から頭に入ってこなかった。
俺の頭の中をぐるぐると駆け巡るのは、臨也が生きていた、生きていてそして今俺の目の前に居る、その事実だけだった。
つい数分前まで死んだと思っていた人間が急に眼前に現れるなんてにわかには信じがたい話で、未だに今目の前に居るコイツは幻覚かはたまた俺の妄想か何かなんじゃないかと疑いそうにもなるが、握り締めた臨也の手の平の温かさがその馬鹿げた考えを打ち消してくれた。
手が温かい。生きている人間の体温だ。ああそうか、コイツ生きてるんだ。


「…ちょ、っと…シズちゃん…?」
「…え」


目を丸くしてまじまじと俺を見つめる臨也の顔がふいにぐしゃりと歪んだ。
水面に映る風景のようにゆらゆらと揺れる視界がおかしくて、きつくぎゅっと瞼を閉じると温かい水滴が頬を伝うのが分かった。
歪んでいるのは臨也の顔でも街の風景でもない、俺の目から止め処なく流れる涙がそうさせていたのだ。
泣いているという事実を認識してしまうと、まるで堰を切ったかのように次から次へと涙が溢れ出してきてどうすることもできなかった。
何だこれ、何で泣いてるんだ、俺。
その理由も分からぬまま、込み上げては溢れて零れ落ちていく涙を拭う気も起きなかった。


「………」


ただひたすら泣き続ける俺を、呆けた顔で眺めていた臨也の瞳がスッと細められた。
かと思うと、臨也は突然俺の手を取ると何も言わずにそのまま走り出した。
引っ張られるように俺の体がつんのめる。
何してんだテメエ触んじゃねえよ。
そんな悪態も、漏れる嗚咽に押し込められてとうとう口に出すことは叶わなかった。