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誰かにとん、と肩を押された。ぐらり、気付いたときにはもう遅く、ざぶんと海に突き落とされる。ああこれ、海なんや。夏だというのに海の水は冷たい。
恐らく夜なんだろう。濃い青の中でぼんやり月の光のようなものが見える。独り、と気付いた瞬間、助けを求めるように口が開いた。
がばり、ごぽり、己の口から出てきた泡が月の光に照らされて綺麗だ。
ゆっくりと海底に落ちていく。ひんやりとした海水の冷たさはやがて肌を刺すような冷たさになっていた。ああ俺、海底で凍死するんや。独りなんや。嫌や、独りで凍死なんて、誰かの、そばで、誰かのそばで死にたい。体温が海水に逃げていく。俺はいつからこんなに弱かったんやろか。伸ばした手の白さが眩しくて、ゆっくりと瞼をおろした。
「忍足、風邪ひくよ。」
久しぶりに会って、久しぶりに話して、久しぶりにデートをした。一応忍足の彼女なんだけど、忍足は毎日部活やら何やらで忙しくわたしから話し掛けるのは避けていた。
今回珍しく忍足からメールがきて今週の日曜、忍足の家に行くことになった。忍足の誘いには驚いたわけだけど、久しぶりのデートに胸が弾んだ。
それで今日、忍足の家に来たはいいが私がちょっと電話で部屋から出てる間に忍足は寝ていた。寝ていた。大事なことなので二度言いましたよ。ベッドの上で、しかも壁を背に座って寝ている。寝転がればいいのに。いやそういう問題ではない。
あまりにもぐっすりと寝ているので起こすことも出来ず、取り敢えず肩を押してベッドに横たわらせた。多分あれだ、部活で疲れてるんだ。仕方ない。そう自分に言い聞かせ、私は部屋の本棚にあった本を手に取る。…ラブロマンス系しかない。
なんだこのくそ甘い話…とそろそろ砂糖を吐きそうになった頃。読んでるこっちが恥ずかしいわ!と本を投げ出そうとしたとき、隣から唸るような声が聞こえた。見れば忍足が大量の汗をかいて眉間に皺を寄せていた。なんか怖い夢でも見てるのだろうかとのんきに考えつつ時計を見ると、十四時をさしている。二時間くらいしか経ってないのね、とまた忍足を見ると何かを求めるように腕がシーツの上を這う。相当うなされてるな。クーラー効いてるし冷や汗もかいて風邪ひくなこれは。まあ彼女放っておいて寝てるししばらくはうなされていればいいと思ったけど、さすがに可哀想なので起こすことにした。
忍足、風邪ひくよと声をかけたら案外あっさりと目を覚ました。というか忍足が人前で寝るのって想像出来ない。私だから安心してるのかもなんて考えて、ないわーと一人冷静になる。物凄く疲れてるんだきっと。
「うなされてたけど大丈夫?汗凄いし。」
「俺いつの間に寝てしもたんや…は?十四時?」
ありえへん!とか時間ないやん!とかがたがたしだす忍足に取り敢えず着替えればと提案したらせやな、と言って目の前でシャツを脱いだ。ちょっと待て仮にも彼女だけどそんな耐性はない!せめて違う場所で着替えてほしかった!くそいい腹筋してる。
「あー時間ないってことは用事あるっぽいし私帰ろうか?」
Tシャツを引っ張り出して着ている忍足を声をかけたら、きょとんとした顔をされた。ポーカーフェイスってなんだっけ。
「自分、あほなん?」
「えっ。」
こいつ失礼だ!私の気遣いに対してあほなん?ってどういうことなの。いやあほだけど。よく言われるけど。思わず忍足の顔を凝視していると忍足がため息をついた。くそかっこいいから何も言えないけど。ため息までかっこいいとかなんなの。
「ミョウジとデートしとんのに何でどっか行かなあかんねん。」
「えっでもなんか時間がどうのこうのって。」
「ミョウジといちゃいちゃする時間が減ってもうたっちゅー意味や。」
「ああ…そういえばうなされてたけどどんな夢みたの?」
そういう言葉に慣れてないため急いで話題を変えれば、忍足がくすくすと笑う。くそ楽しみやがって。顔に熱が集まるのがわかった。
「誰かに肩を押されてな、海に突き落とされる夢。」
「へえ。」
誰かに肩を押されるってもしかして私じゃないの。座って寝てた忍足の肩を押したの私だ。夢の中まで伝わっちゃったのか。海に突き落とされるって、怖いだろうなあ。
「海の水がな、夏のくせしてめっちゃ冷たいねん。そんでな、どんどん沈んでくうちに体温全部奪われたんちゃうかってくらい冷たなって。」
ゆっくりと隣に座った忍足が私の手を握った。その手は驚くほど冷たく、ぞわりと背筋が凍る。
「俺、凍死してしまうんや。そう思った瞬間、この広い海で独りて気付いた瞬間、死にたない、独りで死ぬんは嫌やて、必死に腕を伸ばしたんやけど。」
腕があまりにも白くてな、眩しくて目瞑ったんや。そしてまた開けたら、ミョウジがおって。そう言ってぎゅっと手を握る忍足の肌が一瞬青白く見えたのは気のせいだろう。冷たかった手はいつの間にか私の体温が移ってぬるい。
「忍足、死ぬの?」
ゆっくりと忍足の手を握り返せばかたかたと震えているのがわかった。顔を覗き込めば、彼はゆっくりと目を閉じる。その動作が酷く儚い。
「死なへん。ひとりでは死なへんよ。」
長い睫毛が揺れ彼の瞳とかち合う。ぎゅっと握り締められた手が、何故だか寂しかった。彼がどこか遠くへ行ってしまう気がして。
「そばにいて。」
どちらが発した声かもわからない。次の瞬間にはもう、唇が触れ合っていた。
「電話やらメールやらじゃ満足出来ないんや。ミョウジがそばにおらへんと。」
だからミョウジ、とゆっくりまわされた腕に応えるとぎゅうと力が強くなる。
「俺と、俺と海で一緒に溺れてくれへんか。」
離れていた分これからずっと、そう言う彼にうんと頷けば次の瞬間呼吸が出来なくなった。
お互いに腕をとりあって次の瞬間海に落ちる。
20120906.