結果から言って、その日、張遼は宗春の誘いには応じなかった。正確には応じられなかったと言うべきなのだろう。董卓の寝所の夜番を申し付けられた張遼は、悲鳴のような嬌声と部屋全体が軋んでいるかのような物音を耳にしながら眠れない夜を過ごした。唯一幸いだったのはその日の相手が見知った女性でなかったことか。
 頼まれても聞きたくない騒音が止んだのは空がうっすらと白んできた頃合いで、それから僅か一刻後にやってきた交代の兵士に苦笑された張遼は、その反応から自分は随分とひどい顔をしているようだと悟る。どっと両肩にのし掛かる疲労感が増したのは言うまでもない。
 徹夜の眠気と精神的な疲労とで追い詰められた意識をなんとか保ちながら、酔いどれのようなふらふらとした足取りで張遼が向かったのは、何故か自室の方向ではなく、常日頃宗春と会話する中庭の方角であった。

「――おや、今朝は随分とお疲れのご様子ですね、張遼様」

 そうして、いつもと変わらぬ様子で長椅子に腰掛け弦を弾いていた宗春を見付けた瞬間、張り詰めていた何かがふつりと切れるように張遼は意識を失っていた。


 木の葉の擦れる音と鳥の囀りだと思っていたそれが、弦楽と、それに乗せた歌声だと気が付いて、その声に誘われるように現に戻る。質の良い枕と布団の感触と、うっすらと感じる爽やかな水辺の木々の香りに、張遼は夢現の微睡みの中でそこが自室ではないということを理解した。
 現在の状況に至るまでの記憶を反芻しようとして、微睡みの心地よさに阻害される。布団の中で僅かに身動ぎ唸る張遼に気付いたのか、微風の中に漂っていた葉擦れの音と囀りが途絶えた。思わず眉根が寄ってしまったのは、心地よい音色が途絶えてしまったことへの不満からか、単なる寝起きから覚醒に至るまでの奇妙な不快感からだろうか。
 するすると布の滑る音が近付き、ゆっくりと重い瞼でまばたきをする張遼の前にゆらりと揺れる影が立つ。

「……お目覚めですか?張遼様」

 子供を寝かし付けるような柔らかい動作で頭を撫でられる感触に、張遼は眉間に刻まれた皺を解き、暫し目を閉じて感じ入った。くすくす、吐息のような笑い声が耳に優しい。

「――…そなた、は…」
「明け方にやっと御訪ね下さったかと思えば、一人で夢路に旅立ってしまうだなんて……酷い御方ですねぇ、将軍は」
「………………宗春、殿?」
「はい、おはようございます張遼様」

 がつん。状況を正しく理解し跳ね起きた張遼と宗春の頭が激しくぶつかり鈍い音を立てた。

「……随分と熱烈な御挨拶ですね」
「……す、まぬ……」

 頭に巻いている布の分衝撃が弱まったのか、それとも単に当たり所がよかったのか、ぶつかった箇所を押さえてはいるものの平然とした様子の宗春に、星の散る視界で身悶えながら張遼は短く謝罪した。
 痛みというよりはぶつかった際の衝撃の余波が頭蓋骨を揺らし続けている心地に目眩がする。今の事故で眠気は完全に消し飛んだものの、覚醒した意識で認識した世界が調度の趣味や置かれた楽器の数々からどうやら宗春の私室であること、さらに自分が、おそらくは彼にここまで運ばれ、鎧兜を脱がされて御丁寧に寝巻きに着替えさせられて寝かされていたことに気が付いて、さらに強い目眩を覚えた。
 戦に身を置く武人でありながら他人の部屋で無防備に眠りこけていたこと、方法はわからないがけっして軽くはないだろう自分をわざわざ運ばせてしまったこと、着替えまでさせて寝かし付けてくれた人物にあろうことか感謝ではなく頭突きをくれてしまったこと。感謝すべきことと謝罪すべきことと恥じるべきことが混沌と混ざり合う思考を宥めるように、深く息を吸っては吐き出すを繰り返した張遼は、いつも通りに口許に笑みを浮かべている男に向き直るともう一度「すまない」と謝罪した。

「……ここは貴殿の部屋なのだろうか」
「はい。ついでにお答え致しますと、突然眠ってしまわれた貴方をここまで運んだのも、着替えさせたのも私です。具足一式はあちらに」

 ゆるりとした動作で動いた宗春の腕が、部屋の片隅を指し示す。丁寧に折り畳まれた着物と共に一式揃えて並べられた己の装具を見て、張遼は申し訳ないと重いながらも少しばかり安堵した。

「……申し訳ない、鎧兜を纏った男一人運ぶのは並の男でも大変だろうに、よもや貴殿に……」
「ええ、いまだかつてない御返しを頂きましたしね」
「それについては貴殿のお怒りもごもっともだ。大変申し訳ないことをした」
「おや、私は別に怒ってなどおりませんよ?」
「……嫌味にしか聞こえぬのだが」
「……ふふ、本当に怒っていませんよ。意識がない内に誘拐されたも同然なのですから、張遼様の混乱もごもっともだと思います」

 もうすぐ昼食の頃合いですが、如何なされますか?
 宗春のその問い掛けに、張遼の腹の虫が答える。これには流石の宗春も耐えられなかったらしい。静かに顔を反らし、自分の足元に伏せるようにして肩を震わせ始めた宗春を見て、張遼は同じように静かに顔を覆った。