「ひとつ宜しいか」
「お答えできることでしたら」

 先日この中庭で言葉を交わしてからというもの、毎日のように交わすようになった応酬を終えると、張遼はいつも通り宗春促されるまま、木陰に設えられた長椅子へと腰掛けた。空も漸く白んできたかという時間帯、頭上に生い茂る緑の隙間から僅かな光が降り注ぐそこはひんやりと涼しく、隣から響く穏やかな弦の音もあいまって、その心地よさに振り払った睡魔が舞い戻ってくるのがわかる。頭上から飛び立つ鳥の羽音が響き、僅かに揺らされた枝から葉が一枚、ひらりと舞い落ちたのが見えた。
 翌日、同時刻に中庭を訪れた張遼は、同じ場所に佇み同じように弦を弾いていた男に先のように切り出して名前を聞いた(男は王允の息子としてでなく、楽士として宗春と名乗った。)。翌日は歳を(実年齢よりも老けてみられます、とだけ返された。)、その翌日はいつから音楽を嗜んでいるのかを(楽器に触れたのは五歳の時が初めてだそうだ。)、その翌日はあの日見た“小鳥”について(怪我をしているところを助けたらなついたので飼っている、らしい。)。
 人影など無いに等しい早朝、張遼がひとつ問い掛け、宗春が返答するだけの時間。さて今日は何を問おうか、弦の音に耳を傾けながら暫し逡巡したのち、張遼は視界の端をひらりと掠めた布に狙いを定めた。

「この時期、その衣装は暑苦しくはありませぬか」
「ええ、それはもう。多少の汗は布に吸われますけれど、服の中が蒸して蒸して、ずっと湿っぽいんです。それが嫌でずっと日陰にいると、今度は自分が茸か青黴にでもなったような気分で」

 はぁあ。宗春が大仰に溜息をつく。そんなに鬱陶しいのならば毎日律儀に着続けなくともよいのでは、と言おうとして、もしややむにやまれぬ事情があるのではと思い至った張遼はそこで口をつぐんだ。複雑な表情を浮かべる張遼を見て、宗春はくすくすと吐息で笑う。

「将軍は存外顔色が読みやすくていらっしゃる」
「む……」
「私と一緒で根が正直者なのでしょう」
「御自分でそれを申されるか」
「嘘は嫌いなもので」
「…………」
「確かめてみますか?」
「……なにをですかな」
「御要望とあらば、この皮、剥いで見せてもよろしいですよ?」

 夜明けの爽やかな空気に全く似つかわしくない誘惑の言葉を、今が正に宵闇の只中であるかのような艶かしさでもって宗春は紡ぐ。戯れを、とかわすにはあまりにも真剣な声音で、さりとて冗談のような飄々とした響きで紡がれたそれに、張遼は暫し呼吸すら忘れて瞠目した。
 日陰故の相乗効果か青白くさえ見える宗春の顔は、右のこめかみから左の頬へと斜に覆い隠す布の裾から覗く鼻先と口許しか窺えない。
 にぃ、と弧を描いた唇に、どくり、と心臓が跳ねる。
 口ほどに物を言うという両眼を隠しているのはこれの生業ゆえか、それとも、先のこれの言葉通りに正直者であるが故の苦肉の策なのか。肌の白さのせいか余計に赤く見える唇はどうあっても張遼の思う真実を紡ごうとはしない。笑い飛ばせばよかったのか、それとも先程思ったように、戯れを、と無理矢理にでも受け流してかわしてしまえばよかったのか。冗談ですよ。その一言を待ち続ける内に失われた選択肢が声にならない響きとなって唇を震わせた。
 白い手袋に覆われた指先が、ひたりと張遼の頬に触れる。ざわざわと騒がしい音を立てて何かが皮下を走っていく音を聞いた張遼は、そこで漸く切れ切れに宗春の名を呼んだ。
 ざわり、木々が風に蠢き、枝を揺らめかせ葉を落とす。二人の間を通り抜けた風が宗春の肌という肌を覆う“皮”を揺らめかせ、その時翻った裾から覗いた頬に――――張遼は確かに、青緑の、鱗を見た。

「そのつもりがあるならば――――それに似つかわしい刻限に、此所で」

 言って離れた宗春が、滑るようにして張遼に背を向ける。ひらひらと衣装の裾を踊らせ歩んでいく宗春の姿は蝶が舞うかのように優雅であったのに、その下に隠された真実を垣間見た張遼にはそれが美しいなどとは微塵も思えず、目蓋の裏に焼き付いた硬質な輝きを思い出してはその感触を夢想していた。