「――貴殿は戦や政を好まぬ性質だと聞き及んでおりましたが」

 早朝の、まだ柔らかい陽射しの差す中庭で、張遼がその姿を見たのはまったくの偶然だった。
 いまだ朝焼けの明けきらぬ薄青い景色の中、常の通りに肌という肌を布で覆い隠した暑苦しい衣装をまとったその男は、木陰に設えられた長椅子に腰掛けて調弦をしていた。中庭の木々に集まった鳥の鳴く声に、弾かれる弦の響きが混ざり、穏やかな旋律を生み出していく。ただそれだけの光景であったならば、張遼はわざわざ足を止め、声をかけるまでには至らなかった。

 ――そうせざるを得なくなったのは、楽士の不意の呼び声に一人の男がまばたきの間に姿を表し、地に降り立つと同時に楽士の前に膝を折って何かの包みを差し出して、同じくまばたきの間に姿を消す――という、一連の光景を偶然にも目にしてしまったからだった。

「このような早朝から城内の警邏とは、張遼将軍は随分と職務熱心な方でいらっしゃるのですね」
「貴殿ほどではありますまい」
「お恥ずかしいところをお見せ致しました。本来なら他者にご覧に入れるようなものではないのですが」
「先程のあれは、貴殿の飼い犬か?」
「いかにも、私の小鳥の一羽です」
「鳥、か」
「ええ、様々な土地の歌を教えてくれる鳥ですよ」

 男が消えて後、何事もなかったかのようにまた弦を弾き始めていた楽士は、近付くなり挨拶もなしにそう切り出した張遼にも動じるところはなく、顔を覆う布の下で口角を持ち上げ、ひっそりと微笑んで見せる。これが人と情報を扱う策士であると知った今、その穏やかな表情も軽快な仕草も到底ただの道化とは思えない。
 張遼とて、端から全てを疑ってかかるつもりはない。だがしかし、この楽士の父はあの王允であり、これは水面下での謀略を得手とする類の人間だった。ここで先のやりとりを見逃して、後に下手に足を掬われるのは御免被りたかった。
 つまりは、張遼が声をかけたのも、あえて詰問するような言葉を選んだのも、最低限の保身のためである。自身が仕える呂布といい、その養父たる董卓といい、彼等に水面下で敵対する人間の多さを知らぬ訳ではない。張遼にも武人として呂布を敬い慮る心はあるが、だがしかし、それはそれ、これはこれだ。
 楽士の弾いた弦が間の抜けた音を立てる。弛んだ弦を適度に張り直しながら淡々とした声で返答する楽士には、一連の流れを見られたことに対する動揺もなければ嘘偽りの欠片も見られない。更には「父からの他愛ない言付けの文ですが」と先程受け取っていた包みまで差し出して潔白を証明されれば十分だった。文の検閲を丁寧に辞して張遼は謝罪を口にした。

「不躾な事を申した。お気に障ったならば申し訳ない」
「お気になさらず。内外に敵の多い殿ですから、貴方のような方がいて下さることを頼もしく思います」

 どの口が言うのか。喉まで出かかった言葉をすんでで飲み込んで、張遼は慇懃に頭を下げて踵を返す。空気を染めていた薄青い朝焼けは、既に眩い朝日へと変わっていた。