その男がかの舞姫の兄であると張遼が知ったのは、未だ董卓の健在の頃、蛍を見るという名目で河辺に広げられた宴の際である。
 季節はいよいよ夏になろうという頃合いといえど、夜の河辺はそれなりに肌寒く、それを理由により酒が進んだ者達が屋外の解放感もあいまっていつも以上の狂った様相を示し始めていた。
 高い笑い声を上げながら文字通り溺れるように酒を呑む者、酌をする女人を下卑た笑みを浮かべながら口説く者。
 皆が皆、狂乱するばかりの宴の最中、その楽士はそんな世界から隔絶されているかのように、静かに弦を弾き続けていた。

 張遼は、いつも肌という肌を隠すように服を着込んだその男のことを、顔や声を見聞きすることはおろか名前すら知らなかった。知らないことをさして疑問に思ったこともなかったし、男に特別興味を抱いた訳でもない。
 強いて言うならば、目の前で何が起きようとも泰然自若と曲を奏で続けられる精神が、いかにして培われたのかを聞いてみたかったが、董卓の傍に在る者ならば自然と養われて然るべきかと一人納得したのだった。

「張遼様は、兄様の音色がお気に召しましたか?」

 張遼の視線に気付いたのだろう、酒の注がれた杯を差し出しながらそう問い掛けてきた貂蝉に、一拍反応が遅れた。兄様。その言葉を反芻するように口の中で呟いて噛み砕き、漸くその意味を理解したところで、仮にも護衛として来ている身だからと、差し出された杯を辞する。気の利かぬことを申しました、と直ぐ様身を引いた貂蝉は、同じように呂布に杯を勧め、手にした一つを手渡すとそのまま件の男の元へと寄って行く。呂布の鋭い眼差しを背に受けながら歩み寄る人影に反応した男の、揺れる顔布の陰から、僅かに弧を描く唇が見えた。
 兄。
 宴の騒乱に容易く飲み込まれてこちらまでは届かない、その二人の密やかな会話は仲睦まじくは見えたが、色めいた空気はまるで感じられず、成程、あれは確かに兄妹であるのだと得心する。その光景を同じく眺めていたらしい、傍らの呂布が貂蝉に向けて放っていた眼光が更に険しくなったのを横目に見た張遼は、静かに半歩、隣に佇む鬼から距離を取った。
 かの舞姫が絡んだ事柄での呂布は、戦場での鬼神もかくやという威厳を欠片も感じさせない程に人間臭く、いっそ滑稽ですらある。恋は人を変えると聞くが、その変貌ぶりには色んな意味で感嘆せざるを得ない。呂布の悋気深さは今に始まったことではないが、端から見ても色恋の気配など欠片もない、明らかな兄妹の触れ合いにまで嫉妬するとは。
 張遼にはあくまで他人事でしかないのだが、日常的に呂布と行動を共にすることが多いため、ことある毎に殺気にあてられる羽目になるのは正直勘弁してもらいたいところだった。深くなる眉間の皺も、人一人殺せそうな視線も、呂布の愛情の深さ故であると理解はしている。だがしかし、やはり張遼にとって他人事でしかないそれは、やはりなんの感慨ももたらさないのだった。

「呂布殿はあの楽士のことを何か知っておられるか?」

 眉間に深い谷間を刻みながら睨み付けてくる呂布に、張遼は怯まない。鋭い眼光を再び楽士に移した呂布が舌打ちをくれたのは一体誰にだったのか。いつの間にやらより淑やかな曲調となった旋律が、僅かに張遼の鼓膜を揺らした。

「……王允のところの末弟だと聞いた。武や政を嫌い、音楽なんぞに傾倒する酔狂な虫けらだ。……だが、それ故に貂蝉が最も好いている男でもある」

 貂蝉と話すと三回に一回は彼奴の名前が出てくるのだ、と苦虫を噛み潰した顔でのたまう呂布に、悋気の原因を知った張遼は内心で小さく笑った。
 器用に弦を弾きながらも妹の話に耳を傾けていた兄が、ふと耳打ちをするかのように貂蝉に顔を近付ける。声が空気に飲まれぬようにとの配慮からだろうその行動に、呂布の手の中の杯だろう、何かがひび割れるような音を弾かれる弦の音に重ねて聞いた。

「……近い」
「兄でしょう」
「だが近い」
「ですが、あくまでも兄でしょう。お二人の空気は夫婦でなく家族のそれです」
「そうでなければとっくに殺している」
「……呂布殿、ご自重めされよ」
「……わかっている」

 俺とて、貂蝉が悲しむようなことはしたくないのだ。やはり苦虫を噛み潰した顔でそうのたまう呂布を、張遼は生温い眼差しで見つめた。