ぱらぱら、ぱらぱらと、気だるげな動作で紙が捲られる音は耳に優しいのに、その指先を操る又兵衛の表情ときたら閻魔も裸足で逃げ出しそうな歪みようである。穴蔵の外は五月晴れのよい日和だというのに、薄暗い地中で閻魔帳を眺めながら怨嗟を紡ぎ続ける又兵衛は陰鬱の極致だ、と、春靖は暗い穴蔵の天井をぼんやりと見上げながらそう思った。
 元々、又兵衛が考え事をしている時にはいかなる理由でも又兵衛の視界に入らない、話し掛けない、騒がない、しかし要求には直ぐ様応えられるよう声が届く範囲には控える、の四つが暗黙の了解として義務付けられているのだが、先も言ったように閻魔も裸足で逃げ出しそうな形相の又兵衛の側に居たいと思う人間は古参の兵士にもそういない。寧ろ、日常を共にする者にこそ名を書かれることなくその場で消される危険性が付きまとうのだ。名を書かれた者は必ず陰惨な目に合わされて殺される、と彼の奥州特攻目安箱ですら語られる又兵衛の閻魔帳を恐れるのは敵兵だけではないのである。
 普段から口が悪くて基本的に毒にまみれた罵倒と嫌みたっぷりな悪態しか吐かないが、なんだかんだ世話焼きで分かりにくいが過保護な又兵衛が兵士に手出しをすることはまずないのだが、こういう時の又兵衛は完全に狂気の沙汰なので、その不安も当然のことではあった。
 実際、春靖が覚えているだけで過去に二、三人ほどいつの間にか姿を見なくなった兵卒がいた。その兵卒の教育を任されていたのが春靖だったので行方を尋ねて回ったのだが、尋ねた人々、皆が一様に苦い笑顔を浮かべたのでおそらくはそういうことなのだろう。
 その後兵卒達の間で彼等についての話題が出ることは無く、また春靖もそのことについて誰かに言及されることがなかったので、多分推測は間違ってはいない。それ以来春靖に兵卒の教育係が回されなくなったのも、恐らくはその一件が絡んでいるのだろう。ただ春靖が阿呆すぎて任されなくなっただけかもしれないが。
 だから又兵衛がこうなってしまった時、側に居る役目は必然的に春靖一人に任されるようになった。普段から殴られ罵倒されているから慣れていると思われているのか、ただ単に気の置けない仲だと知られているからなのか、周囲の思惑など正直春靖の知ったことではないが、又兵衛の側仕えという大義名分で与えられる実質的な自由時間は春靖にとって至極幸せなものであったので、結果、春靖は特に拒否も拒絶もすることなく又兵衛の側に落ち着いている。
 欲を言えばたまには太陽の光を全身に浴びながらの昼寝をしたいのだが、陰鬱な気質に違わず、又兵衛はあまり日向を好まないので、それはまたの機会になりそうだ。
 ぱらぱら、ぱらぱら、まだ紙を捲る音は止まない。
 壁に背中を擦り付けながら、ずるずると床に寝転がる。多少整地はされているといえ、直に触れる土はやはりひんやりと冷たく、幼い頃に喧嘩をした仕置きとして閉じ込められた蔵の中を思い出した。
 喧嘩の理由もその相手も覚えていないが、埃っぽく暗く狭い蔵の中は冬に程近い秋の夜だったことも手伝ってひどく凍えたことを覚えている。泣いて許しを乞えばすぐにでも出してもらえたのだろうが、やはりその頃の春靖は可愛くない子供だったので、泣くこともしなければ素直に謝ることもせず、根負けした父が戸を開いた時には見事に感冒に冒されていて、その後は三日三晩を高熱に魘された。
 病床に見舞いに来た又兵衛は寝込む春靖を鼻で笑ったが、寂しいと伸ばした手を払い除けることはなく、ずっと握ってくれていた。
 もう随分と昔のことだ。手を繋ぐことも無邪気に触れ合うことも小突き合うことも、いつの間にか、どちらともなくやらなくなって、やらない内に出来なくなった。又兵衛から一方的にどつかれることはあるが、それだって怒った時に又兵衛からお見舞いされるものであって、じゃれつくようなそれではない。
 きっかけは、なんだっただろうか。春靖が又兵衛に対して身体的な力量差からの危機感を覚えたように、又兵衛も何か思うことがあったのだろうか。別に、わざわざ尋ねてまで知りたいことではないのだが。


「……視線が鬱陶しいんですけどぉ、でくのぼうさぁん」
「……んぁ、整頓終わり?」
「誰かさんのせいで全然集中出来ないんですよねぇ、ご主人様を差し置いて暢気に昼寝なんかしようとしてる誰かさんのせいで、ねぇ」
「へぇ」
「……『へぇ』、じゃねぇだろうがよぉ春靖さんよぉ?『又兵衛様の大事な時間の邪魔をして申し訳ありません』くらい言えないんですかねぇ、俺様の邪魔しかできない役立たずのでくのぼうさんは。ねぇ?ねぇってば、ねぇ?」
「思ってもない謝罪は腹立つだけだって言ってたじゃんよ、またべー」
「ばらすぞテメェ」
「これ以上またべー様の貴重な時間を割かせたくないので遠慮しますー」


 いつの間にか閻魔帳を隠し、奇刃を手にしようとした又兵衛の手を制して、春靖はそのまま肉付きの悪いその手を握り込む。骨と皮。元々細く長い綺麗な指をしているのに、寝食を疎かにしがちな又兵衛の手は痩せぎすで、昔からの噛み癖で爪がひどく歪な形をしている。
 勿体ないなぁ。
 春靖がぼんやりと溢したその声に、されるがままの又兵衛はひどく訝しげな顔をした。


「……んだよ、気色悪ぃ」
「またべー、手ぇつめたいねー」
「だぁかぁらぁ、それがなんだってんだよ鬱陶しいなぁ」
「あ、逆剥け」
「……聞いちゃいねぇよ……」


 悪態をつきながらも又兵衛が拒否を見せないのをいいことに、春靖は又兵衛の手を好き勝手に眺めては弄りまわす。玩具を手にした春靖の様にすっかり狂気が消え失せた又兵衛は、寝転ぶ春靖の腹を枕にして冷たい土塊に背を預けた。