又兵衛は、聡く、賢い子供だった。

 物覚えが良く向上心も高かった又兵衛は、特に勉学にその才能を発揮していった。子供の頭は砂地が水を吸い込むように色んなものを吸収すると何かの折りに聞き齧ったような気がするが、当時の又兵衛は正にその言葉をありありとその身で表していた。春靖やそれより年嵩の子供よりも賢く、周囲の大人達にもよくよく可愛がられるようになった又兵衛の、それと同時に同年代の子供達に対する態度が横柄になってきたのは、はたして大人におだてられたからというそれだけだっただろうか。
 その態度が彼を孤立させるのに、そう時間は要らなかったと思う。
 身近な大人に媚びへつらうことは力なき子供が生き残るための処世術としては正しかっただろうが、子供同士の世界では大人のそれとは似て非なる理が存在するものだ。きっかけがなんだったかは定かではないが、大将格の子供と又兵衛が対立した瞬間、又兵衛は身内の子供達の狭い世界で正しく孤立無援の身となった。

 でくのぼう、とは確かその頃、又兵衛が春靖に付けた渾名である。

 歳に見合わない体格故か、春靖特有ののんびりとした調子が子供特有の短気さにそぐわなかったのか、虐められることもないかわりに特に親しい仲もいなかった春靖が、道場の庭にあった池で、鯉を眺めている時にやって来た又兵衛がそう呼び掛けたのが始まりだった。


「――おぉい、でくのぼう。オマエ、そこで何してんのぉ?」


 水面に写る頬が腫れた又兵衛を見ながら、春靖はぼんやりと「池を見てる」と答えた。
 池から目を離さない春靖の反応をどう思ったのか、又兵衛は暫しそのまま、何かを逡巡する素振りを見せた後に春靖の隣にしゃがんで「面倒だし、ここでいいかぁ」と手にしていた手拭いを池に浸して、絞ったそれを顔に当てた。池の水は大して冷たくもないし綺麗でも無かったと思うのだが、変なところで無頓着な又兵衛はそんなことは気にしていない様子だった。
 養い手である官兵衛は何かと忙しい身であったし、又兵衛自身がそのことを頑として口にしなかったようなので春靖も知らないふりをしていたが、体格差がそのまま力の差に直結するこの頃、訓練や手合わせとは名ばかりの一方的な暴行によって又兵衛の身体には痣や傷が絶えなかった。
 勉強ばかりしているせいかどこか不健康に見える又兵衛の体の、袖から伸びる白い腕にできた腐った桃のようなえげつない色をした痣をぼんやりと見つめていれば、視線に気付いたらしい又兵衛が「なんだよ?」とぶっきらぼうに問う。「……それ、いたい?」。痣を指しながら、当然だろうことを問えば「……べっつにぃ」と反応に困る答えが返って、春靖は会話を続けるか否か考えながらそのまま沈黙した。
 再び手拭いが投げ込まれた水面が、ばしゃんと揺れた。それに驚いた鯉が慌てた様子で逃げていく。不思議と、その沈黙に気まずい感覚は無かった。又兵衛はどうだったかわからないが、少なくとも、春靖は。


「……なぁ、でくのぼう」
「んー?」
「…………」
「またべー?」
「……オマエさぁ、いっつも一人だよねぇ。いつも一人で、今みたいにぼーっとしてやがんの。ねぇ?」
「そうだねぇ」
「……寂しくねぇの?」


 は、と息が漏れたのは、又兵衛のその声がいつもと違う調子だったことに気付いたからだった。「……またべーは寂しいの?」。お互いに池に写る顔を見つめながら交わす言葉は、それだけでどこか遠くからのものに聞こえる。手を伸ばせば簡単に触れられる距離にいたのに、まるで透明で強固な壁を一枚隔てて会話しているような心地だった。


「……オマエは、さぁ?俺様と違ってさぁ、誰かに特別嫌われてるとかじゃあないだろ?オマエのその無駄に育ったガタイならさぁ?舐められもしないだろうし……ねぇ?」
「確かに舐められはしないけどさぁ、色々と面倒臭いよ?」
「……例えば?」
「喧嘩とかさぁ、そういうの。おれのこと味方につけたらそれだけで勝ち、みたいな感じになんだもん。おれ、痛いの嫌いだし、痛いことすんのも嫌いなのにさぁ、みんな勝手におれのこと巻き込んで、そんでおれに全部丸投げすんの。顔も知らねー奴等を『やっつけろー』って、遠巻きにさぁ。テメェが売買した喧嘩ぐらいテメェで勘定しろっつーのくそが」
「……オマエ、意外と口悪いなぁ」
「だってどうでもいい奴だもん」
「まぁ?そういう能無しの木偶と比べればさぁ?オマエは大分マシなんじゃねぇの?」
「自分以外大概木偶扱いのまたべーに言われても嬉しくない」
「……言うじゃねえか、体だけ立派なでくのぼうさんよぉ」


 ――何がお互いの琴線に触れたのかは知れないが、その日から、春靖と又兵衛は何かと行動を共にするようになって、ずるずるずるずるとそんな日が続いて今に至っている。殴られる度に殴り返し関係をやめたのは、歳を重ねても変わらない体格差に春靖が危機感を覚えたからで、その頃には又兵衛の体からはすっかり不自然な傷は無くなっていた。
 又兵衛にとっての春靖はいつまでも『でくのぼう』のままだったが、棘のある物言いは又兵衛の常であり、そこに隠された不器用な優しさを既に春靖は知っているのだ。

 閻魔帳に書かれたら堪らないので、そんなことは死んでも口にしないけれど。