でくのぼう、というのは春靖が幼少の頃につけられた渾名だ。
 元服を迎えた時分で既に六尺、今や七尺近い恵まれ過ぎた体躯を持ちながら、それに見合わないあまりに安穏とした思考と態度、さらには生まれつきの物覚えの悪さも手伝って、いつしかついた呼び名が『でくのぼう』。その巨体とのんびりした動作から、でいだらぼっち、と呼ばれていた頃もあったような気がするが、春靖自身がそのことをよく覚えていないらしいのだ。当の本人が思い出せない位なのだから、おそらく当時の春靖も呼称などどうでもいいと思っていたのだろう。他人である官兵衛など更にその埒外である。
 でくのぼう。
 言いつけられたこと――といっても力仕事に限られるのだが――には忠実だが、裏を返せば言われたことしか出来ない春靖を揶揄し嘲るためでしかないその呼称を、官兵衛が知る限りで春靖が不満や拒絶を示したことはない。それどころかどこか嬉しそうに「はぁい」と間延びした返事をしながら振り返るのだ。


「……おぉい、でくのぼう」
「んぁ?はぁい、んな怖い顔してどしたの、またべー」


 ――――あのように。
 松明を焚いているとはいえ、年中薄暗い地下道の奥から、ふらりと幽霊のような薄気味悪い動きで現れたかつての家臣であり養い子でもある男の呼び声に、恐れおののく素振りもなければ慌てた様子もなく振り向いた春靖の声と表情のなんと間抜けなことか。
 緊迫感の欠片もない春靖の反応に、又兵衛からビキビキと青筋の立つ音が聞こえた気がして官兵衛はさっと耳を塞いだ。


「……どしたの、じゃねぇんだよぉオマエはぁ!」
「ひだい!!」


 がつん、と脳天に落とされた拳に、春靖の口から悲痛な叫びが漏れる。頭を抱えながら踞った春靖に続け様放たれた「俺様は北の動向を探ってこいって言ったよねぇ?ねぇ、確かにそう言った筈だよねぇ?それがなんっでオマエはこの阿呆官と!暢気に茶なんて啜ってんだこのど阿呆!!」という台詞に、官兵衛はあぁこいつ間者だったのかとひどく今更なことに気付かされた。てっきり素直じゃない又兵衛が自分のご機嫌伺いにでも寄越したのかと思っていたのだが、その予想は違っていたらしい。

 そして思う。お前、こいつに間者を任せるのは駄目だろうと。

 肩をいからせて春靖を睨み付けている又兵衛に「飲むか?」と新しく湯呑みに茶を注いで差し出せば、ひとつ舌打ちをした又兵衛は春靖の隣へとどっかと腰を降ろして奪うように湯呑みを受け取った。
 また痩せたのだろうか、体格の良すぎる春靖と並んだその姿は大人と子供の対比図のように映る。それはあくまで外見のみの話で、中身は真逆なのだが。


「てーさつはちゃんとしたよぉ。独眼竜は相変わらず畑耕してたし、羽州探題はコンコン言いながら船漕いでたし、越後の龍は川中島で甲斐の虎と殴り合い真っ只中だったぁ」
「川中島……ねぇ?終わった頃合いに不意討ちもありかもしれないけどさぁ……どうせもう撤退してる頃だろうしねぇ。ねぇ?」
「ん、おれが行った時もう殴り合い終盤だったし、今はもう川中島は無人だろうねぇ」
「……オマエ、本ッ当に役に立たねぇなぁ。愚図。のろま。だぁからオマエはいつまで経っても『でくのぼう』なんだよ。少しは学習したらどうなんですかぁ?でくのぼうの春靖さんよぉ」
「うん、ごめんねぇ、またべー」


 又兵衛の罵倒をふにゃふにゃとした声と言葉でかわす春靖に、チッ、とまた一つ舌打ちが聞こえた。それが先程自分に向けられたものより余程柔らかい響きであることに気が付いて、官兵衛はひっそり「やはり素直じゃないな」と笑った。