空が漸く白み始めた頃合いの早朝の空気は、とても静かで澄んでいるように感じられる。夜が明けきる前に目覚めてしまうのは農業を生業にしてきたものの性か、それともただ単に自分が年寄り染みているだけなのか。歳をとる毎に時間の経過が段々と早くなっている心地がするのは全くの錯覚なのだろうか。暇な時の手慰みに手入れをしてきた芙蓉が大輪の花を咲かせている今、件の一夜から早三月が経とうとしていた。

「楽しい時間とは往々にして短く感じられるものだよ、黄佳殿。時の流れが早く感じるというのなら、それは貴方が充実した日々を送っている証拠だ」

 手元の芙蓉の花のように、甘く柔らかな微笑を浮かべてそう語って下さったのは曹操様が厚い信を置いているという美貌の軍師殿だった。どうせ誰も聞いていないからと、ついつい自分の畑を弄っている時の癖でこの芙蓉の花にここ最近の李典様との出来事を話し掛けていた時のことである。話の内容が内容だけに正直死にたくなった。
 常々他人から“頭が足りない”だの“もっと物事を深く考えろ”だのと苦言を呈される自分ではあるが、人並みの羞恥は持ち合わせているのだ。閨の出来事など他人に聞かせるものじゃない。
 ……洗いざらい吐かされた人間が言えた台詞ではないが。
 思い出すだけで気落ちする優しい尋問の記憶を頭から追い出そうと頭を振って、青々と繁る葉の中で色の変わってしまっているものを枝から毟る。他の葉より脆いそれを細かく千切って落とせば、その内の一片が風に浚われはらはらと空を踊った。
 それをぼんやりと目で追っていれば――――よくよく見知った姿が、視界に入り込む。

「……おはようございます、李典様」
「おはよう、黄佳。こんな朝早くから庭の手入れか?」
「手入れ……と申しますか、ここ数日で蕾が膨らんできていましたので、今日辺り咲くのではないかと思って見に来たんです」
「へぇ……この木、芙蓉だったんだな」
「はい。他の蕾も、おそらくもう数日で開くと思いますよ」

 朝の挨拶もそこそこに、開いたばかりの花を指し示せば、未だやや寝惚け眼の李典様の表情が僅かに綻んだのがわかった。「綺麗だな」。最早聞き慣れた筈の言葉にどきりとしたのは、人のいない早朝の空気がそうさせたのだと思うことにした。

「……つーかよ、お前起きるの早くねぇか?まだ朝飯作る奴等位しか起き出してねぇぞ」
「いや、その言葉そっくりお返ししますよ」
「俺は……まぁ、色々理由があんだよ」
「寝癖とか寝癖とか寝癖とかですか?」
「殴るぞ。……その通りだけどよ」

 つーか、お前は知ってんだろ。どこかばつが悪そうに視線を反らしてそう宣った李典様に、はい、と短く返事をする。欠伸をなさった李典様の口を覆った指の隙間から、僅かに赤い舌が覗いた。
 あの夜の一件からというもの、気に入られたらしい私は李典様と度々そういうことをするようになり、その中で一度だけ、先にお休みになられた李典様を置いて自室に戻ったことがあった。その翌日、何故か盛大に拗ねられた李典様にねちねちと言葉責めにあって以来、そういうことをする日は必然的に朝まで共にするようになったのだ。
 だから知っている。李典様は非常に朝が早い。朝には決まって鳥の巣になっている髪を整えるのにひどく時間がかかるためだ。
 確かに寝起きの李典様の頭はひどかった。それはもう、下手な手伝いなど申し出る気も起きない程の酷さだった。雨季には湿気のせいでさらにひどくなって大変なんだ、と愚痴混じりに聞かされたのを覚えている。
 今目の前におられるのは、その鳥の巣を既に整えたいつも通りの李典様だ。ふわふわと弧を描く頭髪は生まれてすぐの子犬の毛並みを彷彿とさせて、思わず指を入れて掻き回したくなってしまう。やったら殴られるどころでは済まないのでやらないが。経験済みだ。
 再び欠伸をした李典様につられてか、込み上げてきた欠伸を堪えずに溢す――と、口元を覆った手に慣れ親しんだ視線が這うのを感じた。

 確かめるまでもない。
 李典様の、視線だ。

「……流石に朝っぱらからとかは勘弁してください」

 掌をヒラヒラと泳がせてやんわりと拒否を示せば、視線は無意識のものだったのか、顔を朱に染めた李典様は慌てて目線を反らし、頭を掻き乱しながら小さく謝罪を溢された。

 ……これは、整え直しかもしれない。