「――俺、お前がいないと生きていけないからなぁ」

 彼がそう、珍しく冗談めいた調子でそう言ったことを覚えている。普段あまり感情を表に出さない彼が、その時に限って今まで見たこともないような優しい笑顔を浮かべていたことも、全てがまるで今見てきたかのように鮮明に思い出せる。

 ――それなのに、何故だろうか。
 彼が私を呼ぶその声だけが、どこかに置き忘れてきたかのように思い出せないでいる。

 人の住まない家はあっという間に荒れていく、と何かの折に聞いたことがあったので、わざわざ人を雇ってまでその家に住人を用意したのは、彼の葬儀が終わってすぐのことだ。本当なら私が住めればいいのだが、それなりの地位に在る軍人である以上、それは難しいことだった。仕事も地位も何もかも捨てて、この家で自給自足の生活を――という考えがなかった訳ではない。けれど、彼は私が戦場を駆ける姿を何より愛してくれていたから、今の自分の立場を捨ててしまうわけにはいかなかった。

「それじゃあ、お帰りになる時には呼んでくだせぇな」
「ああ、いつもすまないな」
「いえいえ、あっしはただこの家に住まわせてもらってるだけですから。寧ろなんもしてねぇのにお給金まで頂いてしまって、なんだか悪いことしてる気分ですわ」

 給金の入った袋を手に、そう言って部屋に戻っていった男は、元は私の家に奉公していた下男の一人だった。要領の悪さでよく父に叱られていたあの男は、けれども言い付けられたことには非常に従順な性質であったので、今日まで彼は『苑士の部屋に立ち入るな』という私の言葉をきちんと守ってくれている。
 人一人住むには広い邸の中を、彼の私室であり寝室であった部屋まで真っ直ぐに進む。石壁に囲まれた廊下はひんやりと冷たく、人の気配が無いことが尚更その肌寒さを強めた。

「ただいま、苑士」

 扉を開けてすぐふわりと溢れてくる彼の香りに、思わず頬が緩んでしまう。逃げていく空気すら惜しくて手早く戸を閉め、衣装棚から着物を一枚拝借してからそれを抱き締めて寝台へと寝転ぶ。倒れるように身を沈めた衝撃に舞った埃に、そろそろ掃除をしなければいけないかと考える。
 ――苑士は寝食にはずぼらなくせに、やたらと掃除には気を使う人間だったからなぁ。
 着物から、布団から感じる彼の匂いに包まれる心地好さを堪能しながら、そっと瞼を降ろせば、箒を手に忙しなく動き回る苑士の姿が思い浮かんで小さく笑いが漏れた。

『――おい次騫、寝に来たなら帰れや。ここ俺の部屋だぞお前』

 すぅ、と深く吸い込んだ呼吸に、肺腑に満ちる苑士の香り。途端に聞こえた声が、傍らに無い存在に焦がれた心が聴かせた幻聴だとはわかっていた。抱き締めた着物に、よく彼の肩口にそうしていたように顔を埋める。軽い麻の感触は苑士の乾いた掌を思い出させて、たったそれだけのことに目の奥がじくりと熱を持つ。

「……今日は多目に見てくれ」
『――なんだ、具合悪いのか』
「どちらかといえば機嫌が悪い」
『八つ当たりしに来たってのかこら』
「多目に見てくれ」
『……ったく、しょうがねぇな……』

 この甘ったれ。
 そう呆れたように呟いた苑士が、僅かに口角を持ち上げて笑い、乱雑に私の頭を撫でる。慈しむように優しく触れる父の手とは違い、苑士の手はいつだって乱暴で、大雑把で。それなのにその乱暴な手つきがこの上なく心地好くて、私はことあるごとに彼にその手をねだっては「しつこい」と拳骨を貰っていた。

『――お前は普段は凛々しくて格好いいくせに、なんで俺の前だと妙に情けないんだかなぁ』
「……それは、苑士が相手だからだ」

 私が初めて彼の部屋に入ったのは、確か初陣を翌日に控えた日のことだったと思う。戦場に立つことの緊張や、人を殺さなければいけないことへの恐怖、父や周囲の人間の重すぎる期待に押し潰されそうになった心が、無意識に向かわせたのが苑士の元だった。
 草木も眠る夜半に、情けなくも半泣きになりながら部屋を訪ねた私を彼はやはり呆れた表情で見たけれど、けれども私を追い返そうとはせずに、寝付けない私の話を寝惚けながらもずっと聞いてくれていた。
 勉強に疲れた時、鍛練の後、父に叱られた時や、訳のわからない不安や衝動に駆られた時、半泣きで、或いは本当に泣きながら部屋を訪ねては気が済むまで居座る私に、「帰れ」とか「邪魔したら追い出すぞ」と呆れながら口にしていた彼が、本当に私を追い出したことは一度もない。それが彼の優しさだったのか、それともただの怠惰だったのかはわからない。けれども、半ば無関心ながらもただそこに在ることを許してくれるその温かさに、私が救われていたことは紛れもない事実だ。

 彼は、例えるならば空気だった。
 触れられないのに確かにそこに在る。冷たくもあり、同時に暖かくもある、そんな存在だった。

 すっかり温もった着物を掛布のように被って、薄暗い部屋の天井を見上げる。私には少し狭いはずの寝台がいやに広く感じられるのは、そこに残る記憶のせいだろう。
 重なった身体の重み、寝返りで落ちないようにと抱き寄せてくれる腕の感触。徐々に混ざり合って同じものになっていく互いの体温がどうしようもなく心地好くて嬉しかったのに、いつかそれらが失われる日が来るのかもしれないと考えてしまって、ひどく切なくも思っていた。

 ……まさか、こんなにも早くその日が訪れるなんて、思ってもみなかった。

 じわりじわりと熱を持ち出す眼窩に、滲み出した涙で視界が霞む。拭ってくれる人がいない涙はやがて瞳から溢れて、頬を冷やしながら滑り落ちていく。

「……苑士、」

 覚えている。戦火に荒野と化した大地に静かに横たわっていた彼のことを。
 利き腕と肩に矢を受け、その時に取り落としたのか得物すら手にしていなかった彼は、落馬した際に折ったのか、それとも後続の騎馬に踏み砕かれたのか、四肢を妙な方向に捻れさせながら地に臥せていた。
 持ち上げた腕は縄か何かのようにぐにゃりと垂れ下がり、腐り始めていた肉がまるで泥のように柔らかい重さを掌に覚えさせた。

「……苑士、苑士……、」

 覚えている。血の気の失せた顔も、抱き抱えた身体の重さも、あの日、温もりの欠片もない屍と化してしまった、彼のことを。

『俺、お前がいないと生きていけないからなぁ』

 覚えている。撤退の最中、殿という名の時間稼ぎを命じられた彼が、初めて見る優しく、美しい笑顔でそう言ったことを。
 迫り来る敵の追撃に向かって、ほんの一握りの兵を率いて立ち向かった彼が、帰ってこられないということなどわかっていた。引き留められなかった。その死を看取ることすら許されなければ、死の瞬間まで側に立つことも、共に逝くことも、後を追うことさえも、許されなかった。

「――苑士…っ」

 主のいない家を守り、そこに残された存在の欠片を掻き集めて、日々風化していく思い出に縋る自分のなんと滑稽なことか。

「苑士、苑士、……苑士、っ……」

 幾度名を呼んでも、貴方の声が聞こえない。どこを探しても、貴方がいない。段々と埃が積もっていく部屋を掃除する貴方がいない。綺麗に畳まれた着物を着る貴方がいない。私の涙を拭ってくれる貴方がいない。目に見えない何かに怯える私を抱き締めてくれる貴方がいない。冷えていく身体に体温を分け与えてくれる貴方がいない。

 誰より私が愛した、誰より私を愛してくれた貴方が、もう、どこにも。

『――――俺、お前がいなきゃ生きていけないから』

 それはきっと貴方のことで、同時に私のことでもあったのに、貴方を失ったこの世界で、私は今も生き続けている。

 その事実が、ただひたすらに苦しい。

嗚呼と哭く