焦燥と後悔とが渦巻く胸中を必死で押さえている私をよそに、なにが可笑しいのか、苑士はまた愉快そうに喉を鳴らす。その反応に自然と眉根が寄ってしまうのは仕方がないことだろう。

「……真面目な話をしているつもりなのだけれどね」
「ああ、すまんすま……っふは、は、はははっ」

 徐々に大きくなっていく笑い声に腹立たしさよりまず困惑が浮かんで、着物の上から爪を立てて抗議してやれば返ってきたのはやはり適当な謝罪だ。その不誠実な言葉さえ最後は吹き出した笑いに掻き消される。「……嫉妬深いのもここまでくるといっそ笑えるな」。嘲笑としか言えない言葉に、思わず爪を立てる力を強めた。

「奉孝」
「……なにかな?」
「鳴いてみろ」
「は?」
「猫なんだろう?」
「…………それは、」
「少なくともこの半年、俺はお前以外と関係を持った覚えはないんだがな」

 ――は、と、出そうとした声が音にならなかった。

 刹那の内に頭の中が空になり、思考する力すら奪われたようになにも考えられなくなる。苑士が喉を鳴らす音だけがやけに鮮明に頭に響いた。からかい、弄ぶ時の、意地の悪い響きではない。どちらかといえば、悪戯が成功した子供のよう、な。
 その言葉と笑みの意味を理解した途端に、ぶわりと顔に熱が集中した。じわじわと染みるように広がってくる歓喜と、それを信じきれない疑念とが混ざり合って頭を鈍く痛ませる。「嘘」。咄嗟に出た否定の言葉に、やはり苑士は笑うだけだった。

「随分と信用がねぇんだな、俺は」
「……だっ、て、」
「まぁ確かに、それだけのことをしてきた自覚はあるが」
「…………」
「拗ねんなよ」
「……今更、その程度のことで拗ねたりしないよ」
「眉間に皺作って言う科白じゃねぇな」

 言って、固い唇が眉間に触れると同時に浮遊感が身体を襲った。背中と膝の内側に当たる感触に抱き上げられたことを察して首にしがみつくと、直後に何かの上に身体が投げ出され、間髪入れずに苑士が身体を押さえ付けるように覆い被さってくる。視界の端で、ふっと、灯されていた明かりが消えたのが見えた。互いの輪郭すら曖昧になる暗闇の中、目の前の猫が舌舐めずりをする。

「……なぁ、奉孝」

 低い唸り声のように自分の名を呼ぶその声に、ぞくぞくと肌が粟立つ。白い牙が、僅かな光にやけに輝いて見えた。

「可愛がって欲しいなら、猫みたいに甘えて、構ってくれと鳴いてみろよ」

 ――可愛くねだれば、どろどろになるまで甘やかして、死ぬほど可愛がってやるから。

 至近距離に迫った苑士の唇が、肌が粟立つような色香を滴る程に含ませた声音でそう囁く。直接何かをされたわけでもないのに、全身を刹那の内に駆け巡る甘い疼きに「ぁ、」と小さく声が漏れた。
 真の意味で、甘言とはきっとこのことをいうのだ。
 堅い意思や激情すら瞬く間に溶かしてふやかして、思うがままに相手を操るための言葉。ずるい。その言葉に、声に、ほだされて流されてしまうのをわかっていてそうするこの人は、本当にずるい。

「――…にゃ、あ」

 絞り出すように紡いだ鳴き声に、牙が襟首に立てられた。薄い皮膚に牙が食い込む感触と、鈍い痛み。出かけた悲鳴を遮るように、乾いた指先が開いた唇を擽って、首筋を撫でながら上ってきた舌先が耳朶をねぶる。「猫、なんだろう?」。乱れた裾から足を撫で、内腿に爪を立てながら、囁くようにそう命じてくる苑士の言葉は、なんて恐ろしい脅迫なのだろうか。
 にゃあ、にゃあん、と私が必死に鳴き真似をする度に、至るところに立てられる甘い牙の感触に泣きそうになって、鈍い痛みと羞恥に沸いた熱が快楽の疼きに変えられていく。その感触が心地好くて堪らないのに恐ろしくて堪らなくて、けれど、名を呼ぶことさえ禁じられた今、どうすればその恐怖と快楽の狭間から抜け出せるのかわからなくて縋るように苑士の着物にしがみつく。

「……安心しろよ、もう一生、手離してなんかやらねぇから」

 ――――ずるい。いじわる。ひどい。こんなのひどい。ひどいよ、苑士。こんなの、ひどすぎる。
 私の言いたい言葉は何一つ言わせてくれないくせに、私が欲しい言葉だけはくれるなんて、こんな時に『愛してる』すら言わせてくれないだなんて、ひどいよ、苑士。


だからねこれは愛なんだよ