甘い香りを漂わせた柔らかい果実の皮を、武骨な指が器用にするすると剥いていく。少し指でついただけでも果汁を滴らせて崩れそうな程に柔らかく熟れた桃が、男の手によって食べやすく切り分けられていく様子は、女人がその身体を拓かれていく様を見ているようで無意識に喉が鳴る。
 それを催促ととったのか、微かに笑った徐庶が楊枝に刺したひと切れを差し出して、苑士はそれを躊躇なく口に含んだ。柔らかい果肉は歯を立てるまでもなく口の中で崩れ、溢れた蜜が舌を濡らした。

「……ん、うまい。元直も食べろよ」
「ああ、ええと…ありがとう。俺は後で食べるから、これは苑士が食べてくれ」
「一緒に食べた方が美味いよ。ほら、口開けろ」
「え、あ、……うん」

 おずおずと開かれた唇に押し付けた果肉から滴った雫が、顎に、指に、伝う。甘い、な。喜色の滲んだ徐庶の唇が指に這い、伝った雫を掬っていく。指先から掌、手首から肘へ、蜜の描いた線を辿りひたすらに舌を這わせる徐庶はよく躾られた犬のようだ。
 蜜が這い、唾液に濡れた後がひんやりとする。そこに熱い吐息が触れて、乾いた肌が火傷をしたように疼く心地がした。こめかみから差し入れた指先でそのまま頭を撫で回してやれば、心地良さそうに目を細めた徐庶は、ふ、と小さく息をつきながらふるりと震えた。

 徐庶にとって、人の世話を焼いたり尽くしたりすることは、その人に対する最大限の甘えだ。
 働くことで自己の存在を認めてもらって、自己を必要としてもらうことによって自分の存在を確認する。働きに対する賞賛が欲しいわけでも、なにか対価を求めている訳でもない。徐庶はただ自分がいることを誰かに知っていてほしくて、傍にいることを許してもらいたいだけなのだ。
 拒否さえされなければそれでいい。迷惑だと思われなければ嬉しい。傍に在ることさえ許してもらえれば、他にもう何も望まない。謙虚で献身的というよりは、いっそ卑屈で自虐的な思考だ。
 初めてそんなことを言われた日、苑士は思わず口を開いたまま唖然としてしまった。反応としては間違っていない筈だ。何故なら苑士はそんなお優しい思考が出来るほど聖人君子ではなかったのだから。

 苑士は徐庶がそう思うようになった過去を知らないし、知ろうと思ったこともない。もしも徐庶が吐露したいというのならその一言一句を聞き漏らさず聞き届けて、全てを受け止めようとは思っている。けれども、徐庶はなにも語らない。だから苑士はその事情を知らないままだし、この先も知らないままだと思っている。
 もしかしたら徐庶は、苑士自身からそれを問い質してほしかったのかもしれない。だがしかし、苑士は生憎と人の傷口を抉るような真似は好かなかった。それを徐庶自身がなにより望んでいたとしてもだ。

 頭を撫でてやっている内に凭れ掛かるように擦り寄ってきた徐庶が、苑士、と名を呼ぶ。恥ずかしそうに頬を染めて、けれどもしっかりと視線を合わせて「もっと」とねだるので、苑士は桃の乗った器を指して、同じように「もっと」と返した。
 震える指先が差し出す柔らかい果肉に、わざと見せ付けるようにゆっくりと吸い付く。ぢゅ、と音を立てて果肉と蜜を啜る度、表面に舌を這わす度、徐庶の顔の赤みが増し、潤んだ瞳に恍惚とした色が灯り始める。

「元直、もっと」

 差し出されたもうひとつに噛み付く。溢れた蜜が楊枝を伝って徐庶の指を濡らしていく。太く武骨な指先が果汁にふやかされていくのと同時に、内からの熱に焦らされていく徐庶の切ない表情に、苑士はうっそりと瞳を細めて笑った。
 徐庶が何を望んでいるかはわかっている。けれど、苑士はなにもしない。徐庶自身が声に出してねだるまで、もっと切なく、沸き立つ情欲にどうしようもなくなってしまうまで、何も。

「……っ苑士、」
「ん?」
「俺に、も…」

 徐庶がいよいよ焦れたのは、見せ付けるだけの行為を数度重ねて、桃が最後のひと切れになった時だった。「……欲しい?」。苑士の問い掛ける言葉に喉を鳴らしながら頷いた徐庶は、素手でつまみ上げられその口へと押し付けられた最後の桃に、濡れた指先ごと口に含んで吸い付く。
 柔らかい果肉、果汁と唾液に濡れた舌、固い歯牙や頬の内側を撫でて引き抜いた指先に、唾液が絡んで糸を引く。離れていった指先に、ぁ、と小さく溢れた声すら飲み込むように唇を重ねると、待っていたと言わんばかりの勢いで抱き着かれ、呼吸すら奪うように口腔を貪られる。

「ん、ぅ、んん、ん…っ」
「…っふ、ん…ぅ…」

 ――徐庶という男は、生来貪欲な男だと苑士は思っている。それは短くない年月共に在ったが故の考察と少しの直感から導いた憶測だったが、きっと間違ってはいない。やはりそうなった過程を苑士は知らないが、その過程に染み付いた卑屈な思考に押し潰され、いつの間にか芽生えた劣等感に苛まれて諦め続けて来ただけで、人としての願望や欲望は本人すら気付かない心の奥底で燻り続けているのだと、漠然とそう感じていた。
 そして苑士はそれを悲しいことだと思った。恋仲である自分にすら素直に欲をさらけ出せない徐庶をいとおしいと思い、同時に歯痒くも思ったのだ。

「……苑士、苑士、もっと、」
「うん」
「もっと、君、が、欲しい……」
「うん、やるよ。欲しいだけ」
「っぅ、ん……」
「……かわいい」

 苑士は甘やかしたがりだ。それも、相当性質の悪い。甘やかして、依存させて、自分無しではいられなくなって欲しいとこの臆病な恋人に常々そう思ってやまない。そして苑士は徐庶がそういった優しさや甘やかしに殊更依存しやすい性質だと知っている。
 だから苑士は、触れたい、触れられたいと求めることは恥ではないのだと、ただ身を委ねて愛されることは、恐ろしくないのだと、理性で押し込めていた欲望をさらけ出して、必死に自分を求めるお前がこの世の何よりいとおしいのだと、何度だって徐庶に教え続けている。頭を撫でて、唇を重ねて、身体を開いて、全身に刻み付けるように愛を教え込んでいくのだ。

「なぁ、愛してるよ、元直。俺は世界でいっとうお前を愛してる」
「……うん、俺も、だ」

 誰だって、愛した分だけ愛されたい、求めた分だけ求められたいと、そう思うのは当然のことだ。

 それはけして、悪いことではない。

よこしまな純粋