「こら、子上。勤務時間内だよ」
「……第一声がそれかよ」

 腹の上に跨がり、押さえ付けるように覆い被さってくる司馬昭を前に、苑士は常のように穏やかな口調で諌めるようにそう言った。
 古い調度品や錆び付いた武器、誰が放り込んだのかわからない古い着物や子供の玩具までもが犇めく、保管庫とは滅多に人の寄り付かない倉庫の中は、昼間だというのに薄暗く、少しの呼吸でも咳き込みそうな程に埃っぽい。
 現に今、大の男が二人倒れ込んだ古い長椅子からは大量の埃が舞い散って、今にもくしゃみが出そうな程だ。今の苑士は司馬昭によって両の手首を押さえられてしまっている体勢上、口を塞ぐことすら出来ないのが困ったものである。

「……これは、暇が出来たら人員を募ってでも整理整頓をしておくべきかなぁ」

 空気を読まない苑士の台詞に、司馬昭の顔がひどく憮然としたものへと変わった。

 苑士という男は、とかくお人好しな気質の人間である。
 常に人当たりのよい柔和な笑顔を浮かべ、頼まれ事は大抵二つ返事で了承し、しかも仕事は早く確実で、人の信頼を全くといって裏切らない。
 人の失敗は優しく諭し励まして、求められたことには誰彼の区別なく誠心誠意尽力する。その他人にどこまでも甘すぎる姿勢は、けれども苑士自身が全く意図していない素の行動であるのだから、お人好しが過ぎて最早嫌味すら出てこない。
 山のような仕事を恐ろしい速さで捌いていく苑士の姿はこの城内での名物といっても過言ではなく、新人の官吏達がその仕事ぶりを見て唖然とするのは毎年の風物詩である。

 さて、今回の問題はこの苑士のお人好しが仇となったところに端を発する。
 先にも述べたように、苑士という人間は人の頼みが断れない生粋のお人好しであり、仕事が出来る優秀な人間である。繁忙期真っ只中である今現在、その手腕は様々な部署から引く手数多であり、そこに苑士自身の気質が加わることで出来上がるのは必要最低限の休息しかとれないような地獄の日々である。
 まさに忙殺という生活が幾日続いたことだろうか、食事と睡眠以外にろくに自由な時間のないそんな生活に苛立ちを爆発させたのは、当の苑士本人ではなく、何故か司馬昭であった。

 端的に言ってしまうと、拗ねたのである。苑士が他人の世話にかまけてばかりで、なかなか自分がかまってもらえないことに。

 そうして不満を爆発させた司馬昭が仕事中の苑士を拉致してこの部屋へと引きずり込み、そこにあった長椅子へと押し倒したところで冒頭に戻る、というわけである。
 今なお憮然とした表情で自分を見下ろしている司馬昭に苑士が思うのは、忙しい中を拉致された憤怒でもなければ分別を弁えない司馬昭の行動に対する侮蔑でもなく、司馬昭にこんなことをさせてしまうまで我慢を強いてしまった自分への憤りである。

「……そんなに寂しかった?」
「……わかってんだろ」
「そうだな、ごめん。最近は何かと忙しくてね」
「……忙しいのはお前が他人の分までホイホイ仕事受け入れるからだろ?」
「あー…、ええと、それはその……なんというか……」
「………………」
「……ごめんな?」
「……別に?お前がお人好しなのは今に始まったことじゃねぇし?」

 あぁ、これは相当おかんむりだ。
 つんと唇を尖らせた司馬昭が幼い態度でわかりやすく不機嫌を示すのに、悪いと思いながらも表情が緩んでしまう。ふ、と漏れてしまった笑みに司馬昭は気付いただろうか。「手」、と短く口にした要求は直ぐ様飲まれ、解放された腕を逞しい首へと回せば、引き寄せるまでもなく降りてきた唇がぶつかった。

「……っふ、こら……ん、ぅ、そう焦らなくても、っん、逃げやしない、って」
「仕方ないだろ、……も、堪んねぇんだって……っ」
「……そんな誘い方、教えた覚えはないんだけどなぁ」

 いけない子だね。
 咎めるような響きに嗜虐の色を滲ませながら苑士がそう囁いて、司馬昭の唇を軽く食んだ。誘うように開かれた隙間から差し込まれた舌が、甘やかすような動きで絡み付いて、咥内の至るところを余すところなく優しくじっくりと撫でていく。
 舌の動きと同じくゆっくりとした柔らかい動作で苑士の指先が耳朶を優しく擦って、たったそれだけの仕草にぞくぞくと震えを起こすもどかしさが司馬昭の腰を重くさせた。
 舌の先端に歯を立てられて、鼻に抜ける声が漏れる。ぐりぐりと腹部に押し付けられる固い感触を腰を抱き寄せることで確かめれば、鼻先が擦れる距離で挑発するように司馬昭が笑う。

「……今更、お預けとか言うなよ?」
「まさか」

 仕事に忙殺される日々に、焦れていたのは司馬昭だけではない。苑士とて人間であり、いい歳の男だ。溜まるものは溜まるし、そういった欲に飲まれてしまいたい衝動だって持ち合わせている。ただその欲を抑えることに人より少しばかり長けていて、それらを隠すことに慣れてしまっているだけで。
 そう、苑士は慣れているだけなのだ。人が求める『いいひと』の皮を被ることに。
 苑士がお人好しと呼ばれる大部分は、彼自身の根本から形成された揺るがない性質であり、紛れもない苑士という人間の真実の姿である。ただし、苑士自身が正真優しい人間であるかという判断において、苑士は自分自身を優しい人間ではないと評価するだろう。
 例えば今。こうして仕事を投げ出して享楽に身を委ねる自分達を誰かが発見したとして、その時苑士は何の躊躇もなくその責任を司馬昭へと押し付けるだろう。
 この部屋へ苑士を連れ込んだのも司馬昭なら、行為をねだったのも司馬昭である。そしてそれを司馬昭自身が自覚しているのだから、誰も苑士を咎めはしない。寧ろ苑士を司馬昭の我儘に振り回された被害者として見る者すらいるだろう。
 例えばその一連の流れを苑士が予測し、ろくに抵抗もしないままに流され、受け入れていたのだとしても。

「子上、」
「ん?」
「俺にまで仕事を放棄させたんだから……楽しませてくれるんだよな?」
「……ああ、覚悟しとけ」

 いつも崩した着物の着こなしをする司馬昭の胸元から手を差し入れて、そのまま筋肉の隆起を確かめるように肌を撫でては、しっとりと汗ばむ感触を楽しむ。
 帯に伸ばされる手を甘受しながら、苑士はひっそりと、笑った。


やさしいひと