購買ほどではないが空腹の学生でごった返している昼休みの食堂は今日もなかなかの喧騒に満ちている。
 見知った人の気配も定かでなくなる雑踏の中、隣の椅子を引いた人物から香った甘い匂いに根武谷は記憶の中から咄嗟にある人物に当たりをつけた。再び椅子が動く音と共に視界に入った色の薄い頭髪は予想が当たっていることを示し、それと同時に次に来るであろう台詞を予想して、根武谷は牛丼を掻き込む手を止めた。

「永吉ー、メンチカツあげるから牛丼ひとくちくださいなー」

 当たりだ。
 箸を両手で持ち上げ、所謂「いただきます」の姿勢をとった佐々倉に無言のまま食べ掛けの牛丼を差し出せば、要求した時と同じく間延びした感謝の言葉を述べた佐々倉は玉葱の塊とつゆの染みた米を箸に乗るだけ口へと運び、ソースの染みたメンチカツを丸々二つ、木製のトレーの上に転がされた牛丼の蓋へと寄越した。
 主菜の無くなったメンチカツ定食を前に、もう一度「いただきます」の姿勢をとった佐々倉は、ドレッシングはおろかソースすらついていない千切りされたキャベツに箸を伸ばして、それを兎よろしく頬張りだす。口の中一杯に広がる味気ないキャベツの味と香りを想像した根武谷は、内心でうげぇと舌を出した。
 根武谷自身に目立った好き嫌いはないが、だからといってなんの味付けもなしのキャベツを満面の笑みでは頬張るなんてことは出来ない。「お前相変わらず草食なんだな」。根武谷がいかにもうんざりした声で呟いたそれに、佐々倉は「永吉は相変わらずの肉食だねぇ」と相変わらずのんびりした口調でそう返した。

「肉食っとかねぇともたねぇんだよ」
「休み時間毎に『腹減った』って言って何か食べてる永吉の体が不思議でしょうがないよ、俺」
「俺は年中野菜と甘いもんで生きてられるお前の方が不思議だ」
「週一でお魚か鶏肉は食べてるからもーまんたい」
「成長期の男の台詞かそれ」
「俺の身体はお砂糖とスパイスとその他沢山の素敵な物で出来てるんですぅー」
「ああ、舐めたら甘そうだもんなお前」
「セクハラだ!」
「なんでだよ」

 ひたすらキャベツを咀嚼している佐々倉をぼんやりと眺め、まだほんのりと温かいメンチカツを口に放り込む。細い。そして白い。箸を持つ手なんて骨と皮だけにすら見える。その視線に気付いたらしい佐々倉がまた「セクハラだー」とわざとらしく身をすくめて言ったのに額を小突いて返して、牛丼の残りを掻き込んだ。
 運動部の自分と比較するのがまず間違いなのだろうが、佐々倉の体付きは成長期の男子としてはおそろしく細い。無駄な肉がないというよりは必要な肉さえついていないのだ、とは実渕の台詞だ。その言葉に思わず頷いてしまう佐々倉の細さは、無駄な背丈と色の白さもあいまっていっそ病的ですらある。それでも何故か不健康な印象を抱かないのはきっと佐々倉の呑気な気質と、彼の持つ特異な雰囲気ゆえだろう。

 ――――本当にね、食べちゃいたいくらい可愛くて可愛くて、堪らないのよ。

 なんの話の流れでだったか、実渕と佐々倉の出会いから現在に至るまでの盛大な惚気話を聞かされる羽目になった時、まさに恍惚といった表情をした実渕がそう言っていたのを覚えている。「あんなもん食ったら腹壊すぞ」と言って殴られたことも。進んで馬に蹴られる趣味はないのだが、そう語った実渕の目があまりにも本気のそれだったので、つい口から突いて出たのだ。
 佐々倉は砂糖菓子だ。その全身から年がら年中漂う甘い匂い、とろとろとした甘い声、つい眺めてしまう整った外見。その何もかもが甘ったるく人の欲を刺激する、人を誘惑するために存在するのではないかと思ってしまうような人間。
 もしもフェロモンというものが現実に感じられるのだとしたら、それはこいつの体臭のように甘い匂いなのだろうと漠然と信じ切ってしまう程に、佐々倉という男は、とにかく『美味そうな』人間だった。
 だからこそ根武谷は佐々倉を同じく漠然と恐ろしいと思う。チームメイトの後輩であり主将のように、絶対的なカリスマに畏怖するような恐怖ではない。もっと本能的で、原始的な、いわば“未知”であるがゆえの恐怖だ。
 知らないから怖い。
 わからないから恐ろしい。
 なにしろ根武谷は、この佐々倉という男に出会うまで、人間に対して『食欲』を覚えたことなどなかったのだから。

「永吉、目がこわい」
「……あ?」
「空腹の熊みたいな目してる」
「……なぁ、佐々倉」
「んー?」
「お前いつか、マジで誰かに喰われんじゃねぇの。こう、頭からガブッと」
「ざんねーん、俺食べる側だからー」

 いや、そういう意味じゃねぇっつの。
 わざとなのかそうでないのか、相変わらず呑気な佐々倉がもしゃもしゃと草を食む様子を呆れた目で見ながら、根武谷はもうひとつのメンチカツへと豪快に噛み付いた。