呂帆は自他共に認める接吻魔である。但し、他人にとっては悪癖であるその行為は、彼にとってはあくまでも親愛を示す方法の一つでしかない。
 好きな人に笑顔で挨拶をするように、呂帆はその頬に、或いは額に、唇に、実に気安く、他愛ないことのように口付ける。幼い子供のように無邪気に、人としての道理や分別などは微塵も弁えることなく。
 そんな彼の悪意無き悪癖は、今は亡き彼の母方の祖母から賜った他愛ない言葉を発端としている。

『本当に好きな人への言葉に出来ない感情はね、こうして伝えればいいのよ』

 その言葉と共に頬に舞い降りた温かくも切ない感触から、祖母から人への好意の伝え方を教わったその時、呂帆はまだ御年三つか四つ。
 今では考えられない程に人見知りで恥ずかしがり屋な少年だった彼に、そうして祖母が授けた教えは、幼さ故に澄んだ水面の如く純真無垢であった呂帆の心に御仏よりもたらされた天啓の如く衝撃的に刻み込まれ、そのまま今日に至るまで、彼はその教えを最大の親愛表現として使い続けてきたのである。
 初めては祖母に。次は祖父に。
 そこから両親、親類縁者に、近所の子供に、その兄弟姉妹達に――と徐々にその触手を伸ばし続け、幸か不幸かその内の大多数の人間から好意的な反応を貰ってきた呂帆は、あの頃の純真無垢な思考と感覚を、特別歪ませることも育みもしないままに大人として成長するという、稀有で軽薄な人間となったのである。
 呂帆本人に、自身が軽薄であるという感覚は毛頭ない。何故ならば彼の接吻はあくまで親しい者全てに振り撒かれる平等な“親愛”の表現であり、そこに特別な思慕などは含まれないからである。
 呂帆がその行為を罪と認めることはない。何故ならば彼にとって接吻とは、祖母から賜った最大にして絶対の教えだからである。
 祖母の乾いた唇が自分の頬に触れた瞬間の、あのむず痒くも暖かい感覚をなんと表現すればいいのか。
 両親が唇を触れ合わせて、照れ臭そうに、けれどもなんとも幸せそうに微笑みあっていたのを見た時の、胸を鷲掴みにされたかのような、息苦しくも甘く心地よい感覚を、その鷲掴まれた箇所から全身に広がった焦れったい熱を、なんと呼べばよかったのか。

『――大丈夫、いつか貴方も必ず知ることになるわ。だからそれまで、私と貴方だけの秘密よ。ね?』

 呂帆は、これまで幾度となく繰り返してきた接吻で、祖母や両親の接吻によって与えられてきたあの甘美な感覚を味わったことがない。その違いを問うた時、祖母は悪戯をする子供のように無邪気な笑顔を浮かべてそう言った。
 その違いが知りたくて、あの感覚を、感触を、親しい人と分かち合いたくて繰り返した接吻は、けれどもやはりあの感覚を、感触を、味合わせてはくれなかった。老若男女、今まで出会った誰としても、口付ける箇所を変えてみても変わらない。

 温かくはあるのに甘くはない。
 優しい心地はするのに、息苦しくも焦れったく広がっていく熱がない。

 そこにあるのは確かな“幸福”であったのに、それでも何かが、ただひとつの何かが、足りていない。祖母に教えを受けたあの日ずっと、そう朧気ながらも感じていた。

「……いつかって、いつだろうね?」

 兵舎に宛がわれた自室の寝台の上、勤務後の気だるい身体を大の字に広げながら、呂帆はぽつりとそう口にする。今は自分一人である部屋の中、その問い掛けに答えるものは当然おらず、呂帆が発した問いは窓から差し込む夕陽に赤く染められた部屋の空気に溶けていく。
 部屋に戻る前、庭園に転がっていた自分を起こしてくれた夏侯覇へ、感謝として眉間に落とした接吻を思い出しながら、呂帆はそっと唇に触れた。
 司馬懿、張春華、司馬師、司馬昭、王元姫、賈充、諸葛誕、夏侯覇、鍾会、トウ艾――文鴦。
 最近接吻した人のそれぞれの感触を順繰りに思い出していった最後に浮かんだ人物に、初めて触れた時のその感触に、呂帆は唇を撫でる指を止めて息をつく。

「――文鴦殿」

 名前を紡ぐ自分の声が、僅かに弾んでいる気がした。

「文鴦、殿、」

 ――あの人の唇は、甘かったなぁ。

 最初にして最後、たった一度だけ味わったその唇の感触を思い出して、呂帆はそっと下唇に歯を立てた。
 呂帆は、あの時すぐに唇を離してしまったことを今更になって悔いていた。いや、唇を離してしまったあの瞬間から、ずっと悔いている。
 何故、あの時自分はさっさと唇を離してしまったのか。
 何故、司馬師なり文鴦本人に殴られて止められてしまうまで、その感触を堪能していなかったのか。

 甘かった。そして、僅かながらに、熱かった。

「……もっと、って思ったの、初めてだなぁ」

 拘りなく、執着もなく、平等に。
 そうやって親愛を振り撒いてきた呂帆は、自分の中に仄かに芽生えたその欲求をなんと形容するべきなのか、やはり、知らなかった。