晴天の陽射しが葉の一枚一枚を煌めかせる緑鮮やかな庭園の、一際大きく古い桃の木の根本に大の字に寝そべっては穏やかに寝息を立てているその姿を見て、夏侯覇は半ば呆れたように眉を下げて笑った。
 春になれば薄紅の花を咲かせ、目も鼻も楽しませてくれるその桃の木の下は、呂帆の指定席とも言える昼寝場所だ。枝の伸び具合と木々の植え込みの配置から年中程好い陽当たりで、また角度と寝方によっては寝転ぶ姿が他からは全く見えなくなるというその場所を見付けたのは、やはりたった今もその場を占領している呂帆であり、つまりはこれもまた、彼がこの城内に根付かせた日常といえる姿のひとつである。
 すぅすぅと穏やかに寝息を立てている呂帆は無防備そのもので、よほど熟睡しているのか夏侯覇がなんの気遣いもなく近付いても目を覚ますどころか気配に身動ぎすることもない。枝の落とす陰に置かれたままの寝顔を覗き込んだ夏侯覇は、そこでもう一度、今度は本当に呆れた声で笑った。
 いくら警備の徹底している城内とはいえ、呂帆のこれは無防備が過ぎるよなぁ。夏侯覇は暢気な寝顔を見ながらそう思う。
 どんな状況であれ、変に気取らず、自然体であれるのは呂帆の長所であり美徳の一つだと夏侯覇は思っているが、この国にはその頂点である司馬師の影響か規律や風紀に厳しい人間が多いのだ。司馬懿しかり、諸葛誕しかり、こんな真昼間から、人目も憚らず大の字に転がって昼寝をしている姿をその口喧い連中に見付けられでもしたら、困るのは呂帆自身だろうに。
 無人の時にはその特等席を利用させてもらっている一人としての連帯感というべきか、はたまた夏侯覇自身の気質がそうさせた節介か。ともかくも面倒が起きる前に忠告だけはしてやろうと決めた夏侯覇は、鎧を着けたままの呂帆の胸部を遠慮なく叩き、そのまま体を転がすように大きく揺らす。
 むずがる子供のようにうなり声を上げた呂帆は、やがてゆっくりと瞼を開いた。

「…うー…?…かこーはどの…?」
「おう、その『かこーはどの』だ」

 寝るならもっと奥入って寝とけよ、という夏侯覇の忠告に、素直に頷いた呂帆は、しかし目を擦りながら半身を起こした。「いまなんじ」。獣がそうするように大きく口を開けて欠伸をした呂帆がのんびりと問いかけ、夏侯覇がそれに答えると、呂帆はもう一度、顎が外れるのではないかという程に大きな欠伸をした。
 手を組んで伸びをした身体がこきこきと音を立てる。どれ程ここに転がっていたのか、敷かれていた草はすっかりその身を横たえてしまっていて、寝ている間に絡まったのか、その頭髪に混ざっていた緑が呂帆が頭を掻くのと同時に音もなくはらりと落ちた。

「随分と眠そうだな。ちゃんと寝れてないのか?」
「…んー…、昨夜不寝番で、その後すぐに訓練監督して、お昼まで城内の警邏担当だったから…」
「あーわかったわかった、悪かったな気分よく寝てるとこ起こして。部屋まで行けそうか?」
「…ふぁ…、うん、へーき…。うるさい人来ない内に、行く、から……ふぁあ」
「……本当に眠たいのな、お前」

 木漏れ日に、薄く金色に透ける柔らかなくせ毛は、呂帆が異国の祖母から受け継いだものだと何時だか聞いた。王元姫のものよりは濃い色合いの、蜂蜜のような黄金色を、呂帆と初めて邂逅した時の司馬師は“麒麟の鬣”とそう形容したそうだ。実際のところ、獣は獣でもそんな気高さや美しさとは程遠い、甘えたな仔犬のような男だったのだが。
 今なお襲い来る眠気にふらつきながら立ち上がった呂帆がもう一度欠伸を漏らしながら伸びをする。普通にしていても夏侯覇より頭二つ分程度は背の高い呂帆は、下から見上げると聳え立つ塔かなにかのようだ。トウ艾程に体躯がいい訳ではないが、それでも背を反らし右へ左へと揺らす動作をされると、夏侯覇はその圧迫感に僅かな恐怖を覚える。

「――なぁ、文鴦とお前ってどっちがでかいんだ?」

 それはふと思い付いた疑問だった。
 何故文鴦を引き合いに出したのか、それは多分、例の一件のせいもあるのだろうと思ったが、それだけでもないような気がした。

「んぇ?」
「背丈。下から見てっとあんまり違いがわかんねぇんだよな」
「…………」
「おいこら無言で頭撫でんな」

 どこか憐憫を含んだ動作で頭を撫でてくる手を払いのけ、夏侯覇はきっ、と呂帆を鋭く睨む。「…正確な丈はわかんないけど、文鴦殿の方がおっきいよ」。上目遣いになるせいで迫力など皆無だろう眼差しを受け止めた呂帆は、空へと目線を滑らせて考える素振りを見せたかと思えば、やはりのんびりとした口調でそう言って返す。「ふーん」。自分から口にした問いだというのに気のない返事をした夏侯覇を特に咎めるでもなく、呂帆は再び空を見上げた。
 呂帆の髪が、その僅かな動作に揺らめき、陽光を反射して煌めく。
 それが妙に眩しく感じられて、夏侯覇は咄嗟に手で日避けを作って目が眩むのを堪えた。強い光を受けた視界に黒い残像が浮かぶのをまばたきを繰り返してやりすごし、再び呂帆に目を向けようとした時、視界が陰っているのに気付く。
 それに油断して頭を上げた瞬間、ちゅう、と額というよりは眉間に感じた柔らかい感触に、夏侯覇は暫し自らの思考が停止したのを感じた。

「起こしてくれて、ありがとうございました」

 蕩けそうな笑顔で自分の顔を覗き込みながらそう告げた呂帆に、夏侯覇は再び視界が眩む感覚を覚えた。