「大変申し訳ありませんでした!」

 城内の回廊を歩いていた自分に向かって、まるで奇襲を仕掛ける兵士のような機敏な動きで近付いてきたその人物は、驚き足を止めた文鴦の元まで辿り着くと唐突にその場に土下座してそう叫んだ。「……えっ」。唐突な謝罪に理解が追い付かない文鴦の口から零れ落ちたのは、疑問形にすらならなかった気の抜けた声だった。
 文鴦には、たった今自分の目の前で土下座している男に見覚えがあった。知っているかといえば知っている、好ましいかと聞かれれば首を縦に振りかねるこの男は、文鴦の記憶が正しければつい昨日挨拶を交わした、司馬師の護衛兵である。

「俺としては後悔はしてないんですけど流石に初対面の人にあれはまずかったかなっていうかあの、とにかく、いきなりちゅーしてすみませんでした!」

 ――つまりは、そういうことだ。
 この男はつい昨日、出会い頭に文鴦の唇を奪った犯人なのである。

 額を床に押し付けたままの姿勢の男――呂帆という男は、この城内で知らぬ者はいないと言われる程の接吻魔である、らしい。らしいというのは、それが文鴦も人伝に聞いた話であるからだ。
 ある時は挨拶の代わりに、ある時は感謝の印に、ある時は謝罪のために。事あるごとに唇を寄せてくる子供のような癖の持ち主なのだと。
 老若男女、身分も問わず繰り返されるというその癖について聞いた時、文鴦は呂帆に対して軽蔑に似た憤りを感じた。なんと性質の悪い、軽薄な男なのだと。文鴦自身の実直な性格に既にその悪癖の被害に遭っていたのも手伝って、文鴦の中で呂帆という男の印象はもはや底辺とも言える状態だった。だったの、だが。

 ――――だがしかし、へんにゃりと眉を八の字に下げて、今にも泣き出しそうな切実な声音で「ごめんなさい」と謝罪してくる見るも哀れなこの男を、許さずにいられようか。
 例え事の発端がこの男にあり、それに伴う事件の全面的な非が彼にあったとしても、捨てられた子犬のような罪悪感を鋭く突き刺す哀れな表情を向けられ続けてなお呂帆に「許しません」と言えるほど文鴦は鬼畜な性分ではない。何もこんな昼日中の、人が忙しなく行き交う廊下でなくてもいいではないかとは思ったが、なんにせよ、謝罪してきたのなら多少の罪の意識はあったのだろう。一先ずはそれで充分だ。

 はぁ、と吐き出した溜息があまりに軽く消えていく。「もういいです」。突き放したようにも謝罪を受け入れたようにも聞こえるその言葉を、眼前の子犬――もとい呂帆は躊躇なく後者として受け取り、実に嬉しそうにその表情を和らげた。
 その笑顔になんの勝負でもないのに負けた気分になったのは、呂帆の変わり身の早さに本当に反省しているのか疑わしくなったからということにしておく。
 さてこれで用件は済んだだろうと思い踵を返そうとした文鴦を、呂帆が呼び止める。直後、土下座の姿勢から立ち上がった呂帆がへらりとした笑いを向けながら言った台詞に、文鴦は軽い目眩を覚えた。

「仲直りのちゅーは、しちゃ駄目?」
「………………」

 駄目だ、この男全然懲りてない。