凄く美味しそうだったんだぁ、という言葉が呂帆が己が犯行の釈明として最初に発したものだった。

「なんかねぇ、ものすごくつやつやでぷるぷるできらきらしててね、あ、食べたいなぁって思ったっていうか、食べなきゃ駄目だと思ったんだよねぇ」

 道理もへったくれもなければ反省の色すらまるでない、どこまでも暢気な呂帆のその反応に、司馬師は頭に鈍い痛みを覚えて額を押さえた。

 たった今、司馬師の前で床に正座させられているこの男、司馬師を悩ませている張本人である呂帆という司馬師直属の護衛兵は、些か性質の悪い癖を持っていた。
 簡単に説明すると、三度の飯よりも接吻が好きな男なのである。それも老若男女、地位も場所も場合も問わず、したいと思ったらすぐさま唇にかぶりつくという、実に衝動的で見境のない獣のような接吻魔なのだ。

 挨拶代わりに接吻。
 感謝の意を示すために接吻。
 悪戯といえば接吻。
 なにがなくともとりあえず接吻。

 唐突かつ見境のない呂帆の行動に最初こそ混乱を見せた人々も、呂帆の暢気な性分に絆されたのか単に言っても聞かないと諦めてしまったのか、いつしか「呂帆殿の悪い癖だ」と呂帆の癖を許容するに至り、諦め半分ながらも人々の合意という名の追い風を得てしまった呂帆の悪癖は、今や城内の殆どの人間の唇を奪うまでに増長してしまっていた。
 とはいえ出る杭は打たれるのがこの世の理でもある。
 一度呂帆は司馬師の母である張春華に対して出会い頭にその悪癖を発動してしまい、きつい仕置き(その話題に触れると蒼白になり震えながら泣き始めるのでどんな仕置きだったのかは知らない。)を受けて以来、本人も己の行動の意味を多少なり考えたのか自重することを覚えたらしいが、それですら自重を覚えさせただけで、その悪癖を完全に更正したわけではない。

 そして今回、運悪くその癖の標的となり、あえなく被害者となってしまったのが、先の乱の後に司馬師の元に帰順し軍席に名を連ねることとなった、文鴦という武将だった。

「……呂帆、お前の悪癖はこの私もよくよく理解している」

 自分だけではない、この国の者からすれば呂帆の悪癖は最早日常の些末な出来事のひとつとして捉えることが出来るだろう。呂帆のそれは、それ程に常習的なものなのだ。

「――だがな、あの者は我が軍に名を連ねてまだ日が浅いのだ。それはお前も知っていよう?」

 あくまでも優しく、親が子に諭すような声音で問い掛ける司馬師に、呂帆はどこかバツが悪そうに俯いて、ゆっくりと首を縦に振った。

「知ってる……というか忘れない、です。忘れるわけがない。……司馬師殿の顔に、傷を負わせてしまったこと、忘れるわけが、ない、です」

 文鴦の父――文欽を筆頭とし、それに賛同した武将によって司馬師を標的とした反乱が起きたのは、今から二月程前のことだ。常に司馬師に付き従う立場上、鎮圧戦にも、合肥への帰還時に起きた強襲の際にもその傍らに在った呂帆にも、その記憶は強く刻み付けられている。
 司馬師の顔に傷を負わせてしまったこと、守るべき存在を守りきれなかったことを、呂帆は深く悔いている。だがそれが文鴦達に対する憎悪を生むかと言えば話は別だ。

 呂帆という男は、良くも悪くも非常に暢気で、おおらかな性格をしている。その性格故か周囲に甘やかされてきた経緯もあり、内面が実際の歳よりも多少幼い面もあったが、人好きのする性格は周囲に分け隔てない友好を注ぐ平等な精神と深い仁愛を養わせ、人を集め人を繋ぐ人徳を身に付けさせた。
 そんな呂帆が謀反人の息子であるということを理由に、文鴦達を咎めることなど有り得ない。それは司馬師とてとうの昔に承知済みだ。そも接吻という癖自体呂帆なりの友好の証であり、多少行き過ぎた親愛の表現の一種なのである。
 しかし、呂帆という人間もその癖の真意も理解していない人間に、そのような無体を働いてしまったことはいただけない。
 司馬師にとって、文鴦も呂帆も共に国を支え、次代を築く礎の一つとなる大切な存在なのだ。内部にいらぬ不和を生み、亀裂を生じさせる原因は早々に絶たねばならない。それは国の上に立つ者の責務であり、司馬師にとっては天命が指し示した道の一部に他ならない。
 誰より国を案じ己の元に集う者達を案じているからこそ、司馬師は挫けることなく呂帆を諭し続けているというのに、

「……あれ、司馬師殿もちゅーして欲しかったの?」
「…………今の私の話を聞いていて何故そうなるのだ馬鹿めが!!」

 ――――だのに、この男ときたら。

 必死の説明も虚しく、全く見当違いな方向に向かった呂帆の思考に堪らず司馬師が吼えると、威嚇された本人は大袈裟に肩を竦めて項垂れた。
 何故そうなる。本当に、どうしてそうなるのだ。
 本意が伝わらない苛立ちと呂帆の鈍感さに呆れながら、司馬師は仮面に覆われた側の顔を手で覆いながら深い溜息をつく。金属の仮面の表面はひんやりと冷たく、掌に伝わるその温度に冷静を取り戻すよりも先に虚しさが沸く。

 ああもう、これだからこの男は。

「…司馬師殿、怒ってる?」
「……私が怒る理由などないだろう」
「でも、恐い顔してる」
「………………」
「…………ごめんなさい」

 ――これだから、この男は。

 しゅんと眉を八の字に下げ、親に叱られた子供のような、いかにも悲しげな雰囲気を醸し出す呂帆を見つめながら、司馬師はまた小さく溜息をついた。
 これだから、呂帆という男はいけないのだ。
 接吻を拒まれる度、叱られる度、戦場に立つ武士として鍛えられたしなやかな身体を縮こまらせ、いつもは朗らかな笑みを浮かべている顔を泣く寸前の幼子のようにくしゃりと歪ませて、そしていかにも悲痛な声で謝罪を口にする。

 いつもそうだ。
 だからこの男は狡い。

 いい歳をした男が、と怒る気すら失わせるほどに悲観に暮れた表情をして、けれども相手から怒気を削ぐそれらの行動を、全て計算なしでやってのけてしまうのだから。

「……文鴦には、きちんと説明して謝罪しておくのだぞ」

 だから司馬師に限らず、周囲の悉くはこの呂帆という男を甘やかし、その癖を止めることなく助長させてしまうのだ。
 呂帆も勿論悪い。だがしかし、自分達もやはり悪い。
 悪意がないからこそ咎めきれない悪癖をどうにか止めさせようとする自分達の様は、いつまでも乳離れしない子供と困った顔をしながらも乳を与え続ける母御のようだと司馬師は思う。同時に、それならば甘やかしてしまうのもまたその性か、と自嘲した。
 ともかくも、今の司馬師には呂帆に対してこれ以上の言及ができない。「呂帆の癖だから仕方ない」と苦笑する者達のような諦めと、僅かな憐れみと慰めのこもった手で呂帆の頭を撫で、今回の被害者の元へ行けと促してやることが精一杯だった。
 司馬師の催促に、その場で静かに供手した呂帆は暗い足取りのまま司馬師の部屋を後にし、部屋の中には部屋の主である司馬師と、呂帆が醸し出し残していった湿った霧のような空気が残り香のように残された。

「……馬鹿めが」

 自分にか、呂帆にか、吐き出した罵声は静かに部屋の空気に溶けて、消えた。