応仁の跡には今日もいつもと変わらぬ曇天による雨の臭いと、重苦しい戦の気配が満ちている。その最奥であり中心である場所で、創世の将軍はいつもとは違う緊迫感漂う空気に心躍らせていた。足音が近付いてきている。己が始めた創世の終焉と、新しき世の創造者たる朋の足音が。
 義輝には、今日この時に全てが終わるという予感があり、確信があった。
 幾度となく繰り返した創世の軌跡が記された途方もない長さの絵巻を眺めながら、義輝は、この日、この時までついぞ変わらず側に在り続けた男に問い掛ける。

「和秋」
「はい」
「今日の善き日に、其之方は一体何を思う」

 男は義輝の傍らに跪いたまま、しれっと「やっとこの面倒な遊戯が終わりを告げるのか、と思うております」と答えた。珍しく正直な和秋の台詞にからからと快活に笑った義輝の手から、興味を失った玩具のように空に放り投げられた歴史が、同じく義輝の手によって放たれた一閃により瞬きの間に塵と化す。
 はらはらと雪のように空を舞っては力なく地に落ちていく、ただの紙切れとなった時代の欠片に一瞬目を落とした和秋は、はぁ、といつもの如く大仰に、一つ溜息をついてみせた。

「……公方様、毎回毎回、誰がこの後始末をするとお思いですか?」
「少なくとも、予ではないことだけは確かだな」
「いっそ弾正殿のように灰塵に帰して下されば掃除の手間も省けるというのに」

 それは遠回しに義輝にくたばれと言っているのだろうか。仮にも主である己に向かって随分とあんまりな言い様だが、妙に毒づいてみせる和秋の態度は些か浮かれているようにも見受けられる。
 和秋も、喜んでいるのだろう。義輝に巻き込まれる形で長いこと付き合わされた、創世という名の世界を賭けた壮大な遊戯の、真の終焉を。

 そして、信じてもいるのだ。その終焉が、義輝にとっての新たな始まりでもあることを。

「和秋」
「はい」
「其之方は新しき世に何を望む」

 振り返り対峙した和秋の黒曜の瞳が、義輝の問い掛けに僅かに瞬いた。

 ――義輝は、ずっと知りたかった。
 魔王、覇王、竜の王に絆の王、己が望む世のために創世を駆け抜けた数多の朋輩の姿を義輝と共に眺めてきたその瞳が、何を思い、何を願いながら義輝の傍らに在り続けたのか、ずっと問うてみたかった。
 和秋は義輝のものだった。義輝と共に在り、義輝を護り、義輝を見つめ、義輝と共に歩むことだけをしてきた、義輝だけのものだった。和秋はきっと今の今に至るまで和秋自身のものですらなかった。義輝が足利の嫡子であり将軍であったように、義輝に仕えることだけを定められた生き物だった。
 長い創世の繰り返しの間、自由でも死でも、義輝の元から離れるための選択の機会は幾らでもあっただろうに、そうすることができただろうに、結局和秋はそのいずれをも選ぶことなく義輝の傍に在り続けたのだ。
 義輝がそうあるようにと和秋に強いたことはただの一度もない。戯れに己の所有物であるような言葉を投げ掛けたことはあれど、それを戯れと理解できないような白痴ではないと義輝は知っている。

 逃げなかった。
 離れなかった。
 鳥籠の戸を開け放とうと、枷という枷を全て取り払おうと、義輝がそれを是としても、和秋は、そうしなかった。
 それは、一体何故だったのか。

 ゆっくりとまばたきを三つ繰り返した和秋は、己を真っ直ぐに見つめる義輝を見ながら、また一つ深く長い溜息をついた。何を今更そんなとてつもなくくだらないことを問うているのかと、そう言いたげな嘆きの息だった。

「それを、何故、今此処で問う?」
「聞いてみたくなった、では理由にならぬか?」
「……毎度毎度、貴様の思い付きで振り回されるこちらの身にもなれよ……」
「はっはっは」

 許可なく目線を同じくした和秋が、そのままずかずかと義輝の元へと歩み寄る。そうして義輝の顔をじっと覗き込みながら、徐に「楽しかったか?」と義輝に問うた。今度は義輝が困惑する番だ。は、と間の抜けた声を上げた義輝の動揺など知ったことかといった様子で、和秋は再び「楽しかったか?」と重ねて問う。

「……ああ、楽しかったとも」
「満足はしたのか」

 ごく幼い頃と違い、義輝と和秋に見下ろされる程の身長差は無い。けれども少なからず畏縮してしまうのは、和秋の威圧的な態度が義輝を――菊童丸を叱りつけたあの頃のそのままだからだろう。
 和秋からの問い掛けには答えないまま、甘えるように肩口に押し付けた頭は、人目がないからなのか拒まれることはなかった。

「まだ足りぬ、と申したら如何する」
「好きにしろ、と言うな」
「投げ遣りだな」
「後始末くらいはしてやるさ」
「それでは其之方が楽しめぬだろう」
「……なんだ、さっきから気にしているのはそれか」

 ぽん、と頭に乗った手が宥めるように蠢く。「そんなこと、今更気にすることじゃないだろう」。耳元で紡がれる言葉は、慰めではなく諦めのそれだ。手にした笏でべちりと和秋の体を叩けば、お返しとでもいうように頭を叩かれた。

「和秋」
「なんだ」
「其之方の望みはなんだ」
「……いきなり言われてもな」
「なんでもよいのだ、思い付く限りを申せ。予のためではない、其之方が、真に己がためだけに望む全てを、話せ」

 義輝のそれは、命令という形をとった懇願だった。そうでもしなければ聞けないものでもなかったのだろうが、確実な方法をとりたかった。
 ひしひしと近付いてくる戦の気配は常に死の気配を伴いながらやってくる。己の命すら博打の掛け金とする義輝にとって、その甘く冷たい感触は最早日常といってもいい程に慣れ親しんだものだが、今日は特にその気配が色濃く、近くなっている。
 今更だった。
 和秋の言う通り、今更問うべきことではなかった。叶えられる確証などまるでない願いだ。死地に身を置く人間が、今更、未練と後悔を産み落として一体どうするというのだろうか。
 鼻先を擦り付けた和秋の肩口からは、いつもとなんら変わらぬ菊花の香りがした。ありとあらゆる全てが変化し、移ろいゆく中であっても、変わらずに。

「…………そうだな、とりあえず丸一日なにもせずに怠惰に過ごしたい」
「他には」
「弾正の野郎を一発ぶん殴りたいな」
「ふっ、……他には?」
「奥州には切れ味鋭い葱が有ると聞いたから、一度それを振るってみたい」
「もっとあるだろう、申せ」
「……恐山の踊る屍を見てみたい、加賀の祭りではそれは見事な花火が上がるらしいな、あぁ、武田の道場破りもしてみたいな、あのバテレンが造ったという遊戯施設は中々の出来らしい、九州にはいい温泉もあるようだし骨休めとして小旅行もいいだろう、その帰りにでも厳島で日ノ出を拝んでみたいな」
「実に些細なものばかりだな」
「だが、供も付けずに二人旅などそうは出来まい。いくら将軍の位を天に還したといえ、足利義輝の名が持つ威光は根強いからな」
「…………む?」
「ん?」
「その旅程は全て予とのものか」
「そのつもりで語っていたんだが」

 なんだ、付き合ってくれないのか?
 いかにも予想外だという様子の和秋の問いに、義輝はすぐさま首を振ろうとして、一度逡巡して口をつぐむ。

 己と、共に。
 創世の只中にあってもおそろしく無欲な和秋の、その内に確かに存在した微々たる願望に、当然のように義輝の存在が付属している事実は喜ばしく思う。だが、それでは今までとなんら変わらないのではないのだろうか。和秋が義輝の傍らで義輝のものであり続けたように、義輝の存在は和秋にとっての枷であり、壁であり、檻となっているのではないのだろうか。
 和秋の我儘には、我がない。そこには必ず義輝が在り、義輝のために和秋は動く。そんなものは我儘とは言わない。例えそれを和秋自身が望んだとしても、己を第一に考え、己が為に動くのでなければ、そんなものは。

「……其之方は、まことにそれでよいのか?」
「今日の貴様は一段と執拗だな」
「なに、予は随分と罪深いのだと今更ながら思い知ったのだ」
「ほう」
「……困ったものだな。どれだけ思考を巡らせようと、いかに其之方の幸福を想像しようと、其之方の傍らに予がおらぬ未来が思い付かぬのだ」
「……貴様、今然り気無く酷いことを言ってくれたな。私ほど忠義と敬愛に満ち溢れた臣下を解雇しようなどと目論んでいたのか」
「未遂だ。許せ」
「……所詮私は公方様の側に侍る一臣下に過ぎませぬ故、それが公方様のお望みとあらば恭順いたしますが」
「和秋」
「冗談です。どうか御許しを」

 くつくつと、二人して笑い合うとほぼ同時に、乱雑に戸を叩く音が響き渡った。どたどたと急く足音の刻む調子は軽く、長き冬が明けた後の春の気配のように明るい。
 やがて息を切らしながら現れたきらびやかな衣の春の化身を前に、和秋と義輝は一度顔を見合わせてから各々静かに得物を構えた。創世最後の朋の肩から降りた子猿が、二人を前に、きぃっ、と高い声で鳴いて首を傾げた。遅れてやって来た長物を構える夫婦と揃えて三人。義輝が一歩踏み出すと、朱色の鞘より得物を抜いた青年が同じように一歩を踏み出した。
 にいっと笑って腰を落とした青年は、一軍の大将と呼ぶにはあまりに無邪気で、けれどもそれ故に逞しく輝かしい。

「――和秋」

 笏を掌でぐるりと回し、掴んだ義輝が振り返らずに呼ぶ。最早目と鼻の先にまで迫った終焉の空気は、今までのそれとは比べ物にならないほどに優しかった。
 ――春の香りだ。全ての始まりの、長閑な春の日溜まりの香りがする。

「我が創世、最後の朋友のもてなしだ!随伴せよ!我が傍らに咲く菊花の朋よ!」
「……我が主人の御意のままに」

 願わくは、創世の先の春の世も越えて――黄泉の比良坂、浄土すら越えて、二つ先の輪廻が終わるまで。


どうせぬなら
いっそおを、
連れて地獄で二人旅