菊童丸、とそう呼ばれなくなって久しいなぁ、と、いつだって真っ直ぐに己の前に立つ広い背中を見つめながら義輝はなんとはなしにそんなことを思った。
 度重なる戦禍によって半ば朽ちた城郭の、崩れ、積み重なる瓦礫達の中でただひとつ美しいままである舶来物の豪奢な椅子に腰掛けながら、もう幾度目の来訪とも知れぬ朋の姿を待ち詫びて手慰みに笏を回す。退屈を如実に表した義輝のそんな仕草を見て、義輝の傍に侍るマリアと松永が揃って愉しげに吐息で笑んだ。
 前回は竜の王、その前は翼を得んとする若き虎、その前は確か……九州の鬼だっただろうか。それはもうひとつ前の来訪者だったか。忘れてしまう程に繰り返した創世に未だ真の終幕が訪れないのは、ひとえに義輝自身がこの遊戯に飽きていないから、というただそれだけのことなのだが、はたして延々とそれに付き合わされている彼はどうなのだろうか。
 義輝の笏が巻き起こす微かな風に、和秋の束ねられた後ろ髪がさらさらとそよぐ。その艶やかな濡れ羽色がうねるのを眺めていると、そういえば、自身の事に関しては余り頓着しない質である和秋がわざわざ髪を伸ばし、日々手入れを欠かさないのも己がそう言ったからだなぁ、とまたひとつ昔のことを思い出す。
 彼が今その双眸で何を見つめているのか、背中を向けられている義輝にはわからない。ただその場に広がる限りの戦場を淡々と眺めているに過ぎないのかもしれないし、義輝には見えない何かを見つめているようにも思う。例え後者だとして、その『何か』がなんであるのかは、やはり義輝の知り得ないところであるのだが。
 忠実である和秋は、義輝が問えばあるがままを理路整然と答えてみせるのだろう。模範的で、至極真っ当でありふれたことを、なんの抑揚もない機械的な声と言葉で。だがしかし、それでは全く面白みがない。それらは所詮、『将軍の従者』である和秋の言葉でしかないのだから。
 古くは義輝がまだ両の足で立つことすらままならぬ時から傍に在ったその姿は、幾年を共に歩み、幾度の創世を繰り返しても変わらず義輝と共に在り続けている。義輝と刃を交える以前に彼に破れ散っていった朋輩の姿も幾度も目にしてきた。いつだって和秋は義輝の前に在る。義輝のものである和秋にとっても義輝自身にとっても、それは人が絶えず呼吸をするのと同等に当然かつ自然なことではあるのだが、時折、その事実がひどくつまらなく感じられることがあるのだ。

 例えるならば、凪だ。
 凪いだ海上で波のまにまに浮かぶ帆船の如く、義輝と和秋には変化がない。義輝にとってそれは憂いだ。
 平穏が不幸であるとは言わない。だが、停滞はこの世のありとあらゆるものを腐らせる毒だ。流れを止めた清水がその瞬間から腐りゆくように、ゆっくりと、腐敗させて壊していく、毒なのだ。

 不意に、義輝の傍らに腰掛けていたマリアが立ち上がり、からん、ころん、と軽やかな足音を立てながら混沌の満ちる下界へと旅立って行った。どうやら義輝が思考の海を漂っている間にマリアの愛する弟君とその細君が退けられてしまったらしい。つい先程まで微かに響くばかりだった蛮声が思ったよりも近くまで来ている。和秋の横をすり抜けていったマリアが纏う、甘い伽羅の香りが義輝の鼻を擽った。
 血の香りは、まだ届かない。今にも一雨来そうな曇天の空から漂う雨の香りと、傍らに立つ梟の好む硝煙の臭いが混ざりあって漂うばかりだ。
 和秋はやはり微動だにしない。よもや立ったまま居眠りでもしているのかと笏を弓へと変えてその背に向ければ、妙な気配を察したのか、くるりと、和秋が長い尾を靡かせながら振り向いた。

「………………公方様?」
「なんだ、てっきり立ったまま夢路に旅立っているものと思うておったぞ」

 義輝の行動を咎める意図しかないじっとりとした眼差しに、義輝は直ぐ様得物を常の状態へと戻しておどけるようにくるりと回した。はぁ。和秋がひとつ嘆息する。

「……今更、日頃の疲れを労って下さるような優しさなど期待してはおりませんが、貴方様の忠実なる従者にそのような仕打ちはあんまりでは?」

 大仰に溜息をついて見せながら毒づく和秋に、義輝は「予のものを予がどうしようと、それこそ予の自由ではないか?」と当然のように言って返す。『義輝のもの』である自覚があるからなのか、それとも会話自体が面倒になったのか、もう一度溜息をついた和秋はそのまま会話を放棄した。事実上の降参だ。もとより、和秋に勝つつもりがあったとも思わないが。

「和秋」

 再び背を向けようとした和秋に腕を広げて見せると、またひとつ溜息をついた和秋はそれでも大人しく義輝の元へと歩み寄る。腰掛けたままの義輝の腕がそのまま和秋の腹部へと絡み付きその身体を引き寄せると、一連の流れを眺めていた弾正がやれやれといった声を上げて背を向け、物陰へと姿を隠した。

「……戦場でこんな醜態を曝しては兵に示しがつかないだろうが、甘ったれ」

 義輝だけに聞こえるように密やかに紡がれた罵声と共に訪れるのは、咎める口調とはまるで裏腹な優しく甘やかすための抱擁だ。胴丸に守られた和秋の腹は固く冷たいが、こんな状況でさえ容易く自由を奪えることを、それを許されていることを嬉しく思う。
 義輝の首を抱えるようにして抱く和秋の右腕、その指先が宥めるような仕草で頭を撫でていく。こめかみから生え際を、顎の付け根から耳朶を掠めて頬を。皮膚をなぞるようなその愛撫がむず痒く、ぐりぐりと腹に額を押し付けて拒否を示せば今度は左の腕が首へと回り、つい先程まで頬をなぜていた右手が背に降りた。
 とん、とん、と一定の調子で繰り返されるそれは、むずがる赤子を眠りに誘うそれと酷似している。その手に合わせて深く呼吸をすると、慣れ親しんだ菊花の香りが肺腑に満ちた。
 ――『公方様の香りですね』。
 かつて和秋が義輝の幼名に準えて言ったその台詞は、今にして思えば中々の殺し文句ではないだろうか。無意識だったのか故意だったのか、そんな台詞はとんと聞かなくなってしまった。

 悲しくはない。だが、やはりつまらないとは、思う。

「和秋」
「はい、なんでしょうか公方様」
「予が許す。その堅苦しい口調を素に正すがよい」
「……その御命令には従いかねます」
「命令と知りながら従えぬと申すか」
「貴方様のそれは命令という名の我儘にございましょう」
「ならば、名を呼べ」
「はい?」
「昔のように、菊と」

 言ってみて、成程これは確かに幼稚な我儘であると義輝は気が付いた。抱きついた姿勢のまま見上げた和秋は、なんともいえない表情で義輝を見つめ返している。珍しい視点だ。地位も体格も他者より余程優れている義輝にとって、他者を見下ろすことはあっても、こうして他者を見上げることは珍しい。義輝が義輝となってからは、ついぞ。
 和秋の切れ長の瞳の中に義輝が写っている。探るような鈍く暗い眼光をたたえた黒曜をこの手にしたいと言ったら、和秋はその瞳を抉って差し出すのだろうか。死した瞳は流れを止めた水のように濁って汚れてしまうものだが、それが和秋の一部であるならば、もしや、とも考えてしまうのだ。
 和秋の背中に回した腕に垂れた毛先が触れているのに気が付いて、手探りでそれを弄ぶ。さらさらと指先を滑る感触を楽しんでいれば「何故、」と微かに困惑に揺れる声音が降ってきた。

 何故。
 何故、か。

「理由は、無いな」
「………………」

 あからさまに嫌悪を剥き出しにした顔をされた。言葉にはしないくせに顔には出すのか。あるいは、耳聡い梟が側に隠れているから全てを声にしなかっただけなのだろうか。

「なに、久しく呼ばれていないと思ってな。懐かしくなったのだ」
「貴方様をそのようにお呼びできるのは先代様か近衛様ぐらいのものですよ」
「其之方も幼き時分は予をそう呼んでいたではないか」
「昔の話です」

 言い切る和秋の言葉に躊躇はない。昔の話だ。義輝にとっても、和秋にとっても、それは確かにまごうかたなき事実だ。

「あの頃と、何か変わったか?」

 だが、だからこそ、と思う。
 自分で思うよりも切ない声が出たのは気付かなかったふりをして、義輝は和秋の固い腹に顔を埋める。「……なんらお変わりないのは公方様の自由奔放な気質くらいのものでしょうね」。背中を撫でる手付きがいっそう優しくなった気がしたのは、義輝の声音に和秋も気が付いたからだろう。

 公方様。将軍様。帝様。
 記号のような無機質な響きが、いやに耳につく。

「菊童丸、だ」
「お戯れを」
「和秋」
「…………」
「菊と、もうそのように呼んではくれぬのか、和秋よ」

 変わったのは、義輝だろうか。それとも和秋だろうか。或いは、自分達の何れもが変わらずにいるのか、どちらもが変わり果ててしまったのか。手を伸ばせば容易く触れられる距離にいながら、実際に触れ合っていながらも、遠く離れているようにしか思えないこの距離がもどかしく、切ない。これが義輝の独り善がりな我儘であると、自覚があるからなおのこと。
 さらり、指先で触れた和秋の尾が静かな音を立てる。伸びた髪、逞しくなった身体、太い腕、大きな掌、低くなった、声。
 菊童丸と、その昔、穏やかで朗らかな響きで義輝を呼んだその声はもう聞こえない。変わってしまったのだ。短くも目まぐるしい時の潮流の中に飲み込まれ、成長という名の抗い難い変化に書き換えられて。
 逞しい体に幼子のように加減なく力一杯しがみつくこともしなければ、さりとておとなしく引き下がるつもりもない。駄々をこねる子供と言いきるには義輝は加減が効きすぎているし、けれども簡単に譲歩も諦めもするほど大人びた対応をするでもない。随分と、曖昧だ。自分が真に何を望んでいるのかさえ。

「…――菊童丸様」

 懐かしい響きが聞こえたと同時に見上げた和秋が、僅かに笑っているのに気が付いて、少しばかり苛立った。

「……今日の其之方は随分と聞き分けがないな」

 わざわざ顔に出すのは義輝に解らせるためか。それに気付くと同時に、指先の細絹を引きながら抗議すれば「……それは此方の科白だよ、菊童丸」と、望んだ響きが漸く与えられた。

 切ないほどに懐かしく暖かい、その響きのなんと甘美なことか。

「……予も老いたな」
「貴様のような溌剌とした爺がいてたまるものかよ」
「最近、何かにつけて幼い時分を懐古することが多くなってなぁ」
「どうせならば今現在の己の所業を回顧したらどうだ」
「予は反省はしても後悔はしない質だと、其之方もよく知っておるだろう?」

 先程よりもおざなりになった和秋の態度に、先程の数倍以上の安堵が義輝の心身を満たしている。調子のよい応酬の最中に、すぅ、と深く吸い込んだ息が菊花の香りに満ちて、自然と頬が綻ぶのがわかった。

「……お前の、香りだな」

 そう思い付いたように呟いたのは、一体どちらだっただろうか。和秋の指先が義輝の襟足を撫で、頭を撫でて、そのまま苦しくない程度に優しく抱き込める。このまま暫し、微睡みに身を委ねてしまってもよいだろうか。段々と近付いてくる足音に耳を傾けながら、義輝は和秋の胴に回した腕にほんの少し力を込めた。

やれやれ扱い難い