ヌメルゴン、というポケモンがいる。
 ポケモンの中でも特に人好きのする性格で、雨の中でのみ進化できるという珍しい特性が示すように身体中が常にヌメヌメとした粘液で覆われている、まさに体が名を表しているポケモンである。

 さて、俺の手持ちでありパートナーであるところのヌメルゴンは、人懐こい種族の中でも特に人好きな奴である。元々野生のポケモンであったにも関わらず、警戒心など皆無に近く、人見知りなどもまるでしない。バトル中だというのに相手のトレーナーに熱烈なハグをかまして戦闘を中止させたこともあるくらいだ(あの時のホープトレーナーよ、その節は大変な迷惑をかけたことをここでもう一度謝罪する)。
 そいつが今、俺の恋人であるところのプラターヌを現在進行形でヌメヌメのベトベトのグチャグチャにしているのだが、俺ははたしてヌメルゴンの他愛ないじゃれつきを咎めるべきなのか、それともいいぞもっとやれと応援しながら粘液まみれの恋人を視姦するべきなのだろうか。
 因みに一人と一匹はフローリングの床の上でじゃれあっている。俺の家はヌメルゴンの粘液対策に床や壁の殆どは浸水対策済みなのでどれだけグチャグチャのビチャビチャにされようとさして問題はない。後片付けも慣れたことなので気にするようなことではない。寧ろ好きなだけ濡らすがいい。床もプラターヌも。

「あはは、相変わらず君はひとなつっこいねー。よしよし、いい子いい子ー」

 ねちょり、ぐちゃり。プラターヌの一挙一動に糸が引く。ヌメルゴンのハグに応えてハグを返し、頬擦りに頬擦り、くすぐりにくすぐりで返すプラターヌは今や頭の天辺から爪先まで粘液まみれだ。水分を吸収して色濃くなった服は随分と重たげで動きづらそうに見えるが、ヌメルゴンとじゃれあうことに夢中なプラターヌは気にならないらしい。
 俺だけ蚊帳の外で寂しいなんてことはない。断じてない。例え約一ヶ月ぶりのお家デートなのにプラターヌが家に来てから現在までの小一時間、完全な放置プレイかまされているからって拗ねてない。拗ねてなんかいないからな。
 ……畜生、今日のガレットはいやにしょっぱいな……。
 下降の一途を辿る気分を誤魔化すためにつけたテレビに映し出されたのはファッションショーの映像だった。どうやらマーシュさんのブランドの新作発表会のようで、色とりどりの振り袖を着た女性モデル達が、はんなりとは言い難い軽やかなステップでライトに照らされたステージを闊歩している。
 着物の柄や着こなしにも少なからず流行というものはあるもので、これはこれでありだと俺は思うのだが、以前着物の本場に住む従兄弟に写真を送って感想を求めたところ、やんわりとした否定を頂いてしまった。はたして俺の感性が悪いのか従兄弟の器量が狭いのかはわからないままである。まぁ、従兄弟の家は特に伝統を重んじる家系なので否定されても納得の反応ではあるのだが。
 というか凄いな、マーシュさん今日の着物三十キロとか。あの人、着物脱いだら生身は凄いことになってるんじゃないだろうか。腹筋とか割れてたり……そこは企業秘密というか禁止事項か。マーシュさんマジフェアリー。

 とうに冷めたコーヒーを飲み、ガレットをかじりながらぼんやりとテレビを眺め続けて二十分程経った頃だろうか、ショーが終幕を迎えたところで、ふと、なにやら背後にじめじめとした空気を感じた。
 首を捻ってソファーの裏側を覗けば、そこには雨中の捨て犬よろしく膝を抱えて縮こまるプラターヌが。ヌメルゴンはいつの間にかボールに戻っていったらしい。粘液の水溜まりの中にポツンと転がるモンスターボールがいやに哀愁を漂わせている。

「……いつからそこに」
「……君がマーシュさんに見入ってたあたりから」

 つまりは俺がテレビつけた直後からかよ。早く言えよ。
 ぶすくれた表情で俺を見上げてくるプラターヌに然程罪悪感がわかないのは、それまで俺が放置される側だったからだろう。「誰かさんは俺よりもヌメルゴンと遊んでる方が楽しそうだったもんでね」。わざとらしい皮肉を口にすると、拗ねている様子だったプラターヌの表情がくしゃりと、今にも泣き出しそうなものへと変貌した。
 長い付き合いだからだろうか、元々表情が多い方であるプラターヌは、俺の前だと極端に子供っぽい表情や仕草が増える。「……ごめん」。立てた膝に顔を埋めたプラターヌが、くぐもった声でそう溢す。
 ……そろそろいいだろうか。ちょっと罪悪感が半端なくなってきた。

「……シャワー浴びてきたらどうだ?」
「……一緒に入りたい」
「ヌメルゴンとどうぞ」
「君とがいい」
「俺、朝に浴びたし」
「…………」
「…………」
「……君といちゃいちゃしたいのに」
「俺だってしたかったけどねー」
「……怒ってる?」
「拗ねてる」
「ごめん」
「いいからシャワー浴びてこいよ。風邪引くぞ」

 ずぅうん、といかにも暗い影を背負い始めたプラターヌからはそろそろキノコが生えてきそうだ。ヌメルゴンの粘液の処理もあるし、何よりこのままだと本当に風邪を引いてしまうだろうし、シャワーを浴びてこいと言ったのは完全に善意からの言葉だったのだが、ネガティブスイッチの入ったプラターヌには嫌味にしかとれないらしい。粘液まみれの相手といちゃつく趣味は俺にはないんだがな。ただしヌメルゴンは除く。

「どうせなら雨上がりの野良犬の臭いがするお前より、お風呂上がりのボディーソープの匂いがするお前といちゃつきたいんですけど」

 濡れて癖を失った毛先をちょいと摘まみながらそう言うと、少しだけ明るさを取り戻したプラターヌが俺を見た。

「……ドライヤー」
「やってやるからはよ浴びて来いや」

 ……どうやらネガティブスイッチはオフになったらしいが、今度は甘えスイッチが入ったらしいプラターヌを、無理矢理立たせて風呂場へと向かわせる。「カズアキ」「ん?」ねちょ、と合わさった唇から滑り込んだ舌からは、ヌメルゴンの粘液の味か、僅かに泥臭い臭いがした。