ミカド城の薄暗い廊下を、月の光と松明の明かりが照らしている。誰もが眠りにつき始める時間帯、その場にワルターとヨナタン以外の人影は無く、沈黙と静寂が合わさった空気はそれだけで重苦しい緊張感を漂わせている。
 ヨナタンは相変わらず複雑な眼差しでワルターを見つめている、それを真っ直ぐに見つめ返しながら、二人はただそこに立っていた。互いが互いの言葉を待っていたのかもしれない。けれども誰も知らない夜の帳の中、沈黙の時はゆっくりと流れ続けた。


「――ワルター、」


 先に口を開いたのはヨナタンで、けれども彼は、開いた口を数回開閉させただけで結局なにも言いはしなかった。
 悪意しか感じられないワルターの台詞を、てっきりこの男は散々になじるものだと思っていたワルターは拍子抜けして思わず「……怒らねぇの?」と未だ複雑な感情を整理しきれない様子のヨナタンに問うた。その声が我ながら余りにも悲惨な声で、ワルターはその時漸く自分が責められたかったのだと気が付いた。

 ――最後の実地訓練でホープが指定したアイテムをフリンが手にしたと知った時、ワルターは自分がトップをとれなかったことを悔しく思い、同時に、そのアイテムを手にしたのがフリンであったことを心底喜んだ。
 ヨナタンやイザボー、それからナバールにも悪いとは思っている。それでも、最初の訓練で活躍したのがラグジュアリーズの連中でなくてよかったと、心の底からそう思ったのだ。
 フリンに支えられるようにして帰還したナバールを見た時に、その感情はもっと強くなった気がする。よろよろと歩み寄ってくるナバールをフリンと共に支えながら、ざまぁみろ、と心の中で腹黒くもナバールを嘲笑ったりもした。

 ――『少なくとも、オレはこいつより上だ』と、その時のワルターは、確かにそう思っていたのだ。

 ワルターは、我知らずナバールを無意識に格下だと思っていたのだ。だからフリンが訓練終了後にナバールの評価を申し出た時も、正直『なに言ってんだこいつ』と思った。そして、フリンから事の子細を聞き出してからはその疑問が言い様の無い憎悪と憤怒に変わった。

 なんだそれ。アイテムの獲得を手伝ってもらった?そのための戦闘を援護してもらった?アイテムを譲ってもらった?なんだそれ。

 ――お前の首位は、ナバールの温情によって得たお情けの地位だというのかよ。

 思い直せば、ワルターのそれはくだらない嫉妬だった。格下だと思っていた人間――ナバールが、自分の上をいっていたことへの、理不尽な憤りだ。
 フリンにナバールに情けをかけてもらったというつもりがないことはわかっていた。アイテムを互いに譲り合ってゆうに三十分は無駄に時間を消費したと話していたから。勿論、ナバールがカジュアリティーズに対する蔑みだとか、お恵みのような気持ちでフリンにアイテムを譲ったのではないということも理解しているつもりだ。そういった悪意や侮蔑といった感情に、ワルターは聡い。常にそれに憤り、いつか見返してやるのだと野望を抱き続けてきた立場だったからだ。

 けれども、理解と感情はやはり別物で、だからワルターはナバールのことを疑った。――――否、思い込んだというべきなのかもしれない。
 誹謗中傷を受けるフリンに対して、謝罪もしなければ他のサムライ達に弁解も説明もしないナバールこそが悪なのだと。フリンに協力したことも、アイテムを譲り渡したことも、全てがナバールの策略の内なのだと。
 今も、その疑念が完全に拭われたわけではない。それは真偽が不確かだからというわけではなく、完全にワルターの個人的な感情の問題だった。わかっている。けれど、今までラグジュアリーズという巨大な仮想敵に届かない感情を燃やし続けてきたワルターは、いざその敵の姿が目の前に一人の人間として現れた瞬間、燃やし続けてきた感情のたぎりを、どう扱っていいのかわからなかったのだ。


『うん、そこで俺と面と向かって対峙してくれようとする真っ直ぐなお前が好きだよ、ワルター』


 一点の疑念も曇りもない、穏やかな笑顔でそう言ったナバールを思い出して、ワルターは無性に頭を掻きむしりたい衝動に駆られた。
 あの表情も、言葉も、全てがまっさらな嘘ではないと信じている。そう信じたい。自分の理不尽な嫉妬も憎悪も見透かしながら、それでもなお自分の言葉を真っ直ぐ受け入れてくれたナバールを、ワルターはやはり羨ましく思い、妬ましくも思う。

 ナバールのことが信頼出来ないわけじゃない。信頼したいと思っているし、信頼出来る奴なのだと漠然とだがわかり始めている。ただ、あまりに急激な感情の変化に、ワルター自身がついていけないだけなのだ。


「……あいつなら文句があったら直接言いに来るだろうし、気に食わなきゃ裏でコソコソしないで正面きって殴りに来るよな」


 なんの脈絡もなく、そう呟いて口許を緩ませたワルターに、ヨナタンは一瞬ぽかんとした顔をして、すぐにその表情を呆れに切り替えた。


「そんなことをするのはお前くらいだよ、ワルター」
「はぁ?拳と拳のぶつけ合いは男の喧嘩の定石だろ?」
「どんな理由があろうと暴力はいけない。根気強く話し合えば、誰とだって理解しあうことが出来る筈だ」


 先程までの緊迫した空気はどこへやら、一瞬の内にいつも通りの調子を取り戻したワルターとヨナタンは、消灯時間の近い廊下を、再び静かに歩き出す。
 こいつとわかりあえるのはもう少し先になりそうだ。隣に並ぶヨナタンの模範的な解答を聞きながら、ワルターは漠然とそんなことを思った。