その扉を潜った瞬間、比喩でなく、本当に空気が変わったのが分かった。薬屋にも寄っていくというヨナタンとイザボーと別れ、先にナラクに潜ることにした俺とワルター、そしてフリンは、ナラクに足を踏み入れた途端、多分同じ理由で動きを止めた。 ギギィ、と錆び付いた音を立てて閉まる扉の音に背を押され、松明によって明かりの灯された手摺の無い螺旋階段の踊り場へと足を踏み入れる。 息をするのも憚られるようなプレッシャーは一体何処から発せられていたのだろう。地鳴りのように響いてくるナラクに蔓延る悪魔達の雄叫びが、足元を伝って耳に届く。高い音、低い音が幾重にも重なって波のように迫ってくる立体音響の不協和音に、背筋に冷たいものが這うのがわかった。 「……うおぉ……」 感嘆するような、倦厭するような、そんな声を漏らしたのは誰だっただろうか。誰かの口から正しく溢れ落ちたその声は、広く深いナラクの入り口に響くことなく沈んで消える。 緊迫した空気から一番に離脱したのはフリンで、彼を先導とするように所々が崩れた石の階段を降りていく。ワルターが首のスカーフを引き、ふーっ、と長い息をついたのに倣って深く呼吸を繰り返すと、少しばかり気分が落ち着いた気がした。 階下に降り立ち、吹き抜けの踊り場を抜け、『悪魔出没注意』というひどく今更な看板を横目に通り過ぎようとした時だった。 「――――うぉッ?!」 「ッ?!」 バチッ、と回線がショートするような音と共に、ガントレットが光を放った。ああ、そういえばここでバロウズの登場だったか。突然のことに狼狽するワルターとフリンをよそに光を放ち始めた液晶パネルを覗き込めば、モノクロ画面に描き出された妖精が機械的な声音で『HELLO、HUMAN』と挨拶を口にした。 「な、おいおい、なんだこりゃ?」 「Hello,lady. Who are you?」 『あら、語学が堪能なのねマスター。英語によるナビゲーションをお望みかしら?』 「いや、簡単な挨拶位しか出来ないからそれは勘弁して」 「お前少しは動揺しろよ!」 混乱の極みらしいワルターが何かがなるのを放っておいて、液晶の中の女性に挨拶してから、彼女からの自己紹介を待つ。挨拶は完璧なノリだったので、英語での挨拶は慎んで辞退させてもらって。 『私はバロウズ。ナビゲーションAIよ』 『アナタをガントレットの所有者、すなわち私の主と認識したわ』 『よろしくね、マスター』 「あ、ああ、よろしく……?」 「よろしく、バロウズ」 「…………」 三人のガントレットからそれぞれ響く同一の台詞に、それぞれ違った挨拶を述べる。フリンに至っては頷いただけで、それを見たバロウズが『マスターは無口なのね』と笑っていた。 バロウズの挨拶の終了と共に、画面が通信へと切り替わる。映し出されたのは我らがサムライ頭のホープ殿。ワルター、前置き無しに切り替わった映像にお前の肩がびくついたのを俺は見逃さなかったぞ。 『……皆、ナラクに入ったようだな。それでは最初の実地訓練を伝達する』 ホープ殿の言葉にえっ、と思うも、背後から響いてきた足音に疑問はすぐに解消された。小走りでやってきたヨナタンとイザボーとあわせて、扉の前で五人で一様にガントレットを覗き込む。 ――『まずは悪魔と戦い、戦闘のイロハを身に付けろ』。 そんな切り出しから淡々と解説されていくクエスト内容に、皆がそろって息を飲む。いきなり悪魔と戦えって言われれば、誰だってそうなるだろう。習うより慣れろ、ということなのだろうが、昨日まで安穏と生活していた人間に対して一発目からこの殺伐とした指令。ホープ殿は随分と鬼畜だ。 ……こりゃナバールだってああもなるわな。寧ろ悪魔に怯える奴の反応は至極人間らしいものだ。ぶっちゃけ俺だって嫌だ。正直逃げ出したくてたまらない。ステータスとか装備とか関係なく、会話も出来る生物を淡々と『殺せ』と言われていることがきつい。殺らなきゃ殺られるのだと、知っているからなおのこと。 ホープ殿からの通信が切れるのと同時に、現れたバロウズからのメニュー説明は断った。『でしょうね』とバロウズが俺に言ったのは、恐らくは今朝、自分のステータスを見ていたことを知っているからだろう。というか、気付いていたなら出てきてくれればよかったのに。 「そんじゃ、オレは一足先に行かせてもらうぜ!」 俺と同じようにバロウズからの説明を断り、いの一番に扉の向こうへ駆けて行ったワルターの、遠足前の子供のようなワクワク感が滲み出ている様子には苦笑する他なかった。お前、ナラクに足を踏み入れた時の緊張感はどこへやった。 「……さて、じゃあ、俺も行くわ」 バロウズの説明を受けることにしたらしいヨナタンとイザボー、フリンにそう告げて、入り口よりも重たい扉を開く。背後から響いたイザボーからの「気を付けて」という言葉が、閉じた扉に掻き消された。 |