山の春は遅い。
 俺の暮らす山はそれなりに険しい部類に入る。人が暮らすには厳しい環境である反面、人の手によって荒らされることも少なく、季節になれば木の実や山菜がそれこそ山のように生り、それを糧にする獣やその獣を糧にする猛獣達も多く生息する。そのため基本的な食糧には事欠かない。勿論、米や小麦といった主食の類は町まで買い出しに行かなければならないのだが。

「……すっかり春だなぁ、玲綺?」

 陽射しと共に漂う空気も温む季節、暖かい光の降り注ぐ屋外で、摘んできたばかりの山菜の下処理しながらぽつりと呟いた言葉に、傍らで春陽に微睡んでいた獣がちらりと俺を流し見て鼻で笑うかのように息をついた。
 ……心地よい微睡みを邪魔した俺が言うのもなんだが、仮にも主人に対する態度が少々横柄というか高慢じゃあないかね、お前。
 玲綺――もとい、白い毛の雌狼のこいつは、三年前、あの獣との別れの後の春に俺の元にひょっこりと現れそのままここに住み着いた、恐らくは、俺の飼い犬だ。やや横柄だが。それにくわえてやたらと食いしん坊だが。それでも狩りが上手なのがまだ救いだろうか、流石にあいつのように熊を狩ってくることは無かったが、ある朝こいつが鹿三頭を戸口に置いて尾を振っていた時には妙な既視感を感じたものだ。

「玲綺」

 そう呼び掛ける俺に、そいつは相変わらず視線だけを向けてくる。あいつの方が可愛いげはあったな。見た目と違って固い毛を撫でて山菜を詰めた篭を抱えて立ち上がると、俺に合わせて緩慢な動きで起き上がったそいつが、大きく欠伸をしながら伸びをした。

「昼飯が出来るまでまだまだかかる。寝てていいんだぞ」

 俺の呼び掛けに、わふ、と短くそいつが吠える。生憎と獣の言葉はわからないので憶測でしかないが、作るところを見ているつもりなのだろう。あわよくばの摘まみ食い狙いで。色気より食い気か。お前も人の歳にしたら所帯を持って子を作っていてもおかしくないだろうに……俺が言えた義理ではないか。

「…………?」

 土間の土を踏んだところで、ふと、人の声が聞こえた気がして振り返る。俺より感覚鋭敏だろう玲綺を見れば、耳をぴんと立てて声のした方向を見つめている。
 気候と環境によって病人や怪我人、或いは食糧や薪不足が起こりやすい冬場と違い、春先に人が訪ねてくるのは至極珍しい。或いは山で迷った旅人かと、一先ずは篭を厨に置いて外に出る。
 道の向こうから現れたその人影は、旅立った時と同じく大きな布包みを抱えて、しっかりとした歩みで此方に向かって来ていた。

「……玲綺?」

 傍らの獣が、さも「なんだ」と問いたげに鼻を鳴らす。いや、お前じゃない。お前も『玲綺』だが、俺が今呼んだのはあっちの『呂玲綺』だ。
 足元を確かめながら注意深く歩いていたそいつが、はっと頭を持ち上げる。俺の姿を見て気が抜けたのか、ふにゃりと破顔したそいつは次の瞬間――――霜が溶けてぬかるんだ土に足をとられ、盛大に顔から転んだ。

「……お前……」
「……笑うな」
「笑ってない」
「声が震えているぞ」
「気のせいだ」

 駆け寄って引き起こしたそいつは、案の定泥まみれのひどい有り様になっていた。泥のせいか怪我はしなかったようだが。
 狼の方の玲綺に布を持ってくるように言うと、泥まみれの呂玲綺が顔をしかめた。

「……『玲綺』?」
「……呼ばないと忘れるから、つい」
「それくらい覚えていろ」
「俺がどれだけ人との交信が無い生活を送っているか、お前が知らないわけではないだろうに」
「月に一人だったな」
「あれも半年ぶりの来客だったぞ」

 ちなみにここ二年は麓の村の奴を見た覚えがない。沢に水汲みに行く時は時間が合わないし、町に行く時は村を経由しない道を行くので、必然的に人を避ける形になるのだ。それでもなんら困ることは無いので、特に改善しようとは思わないのだが。
 狼の玲綺が持ってきた布で泥まみれの顔を乱暴に拭う。長くなった前髪から、渇いた泥が砂になって零れ落ちた。

「泉慈」
「なんだ、呂玲綺」
「腹が減った」
「お前も色気より食い気か、呂玲綺」
「わふっ」
「今言ったのはお前じゃない」
「……わん?」
「やめろ」

 わうわう、ばうばう、と獣の言語で会話し始めた一人と一匹を放って、呂玲綺の荷物を担いで昼飯の準備のために家に戻る。
 ――腹が満ちたら、あいつがどんな道を歩いてきたのか、何を見聞きしてきたのか、聞いてみようか。疲れて眠ってしまったら明日でもいい。その次の日でも、その先でもいい。何かの拍子に思い出した時にでも。

「呂玲綺」
「なんだ?」
「おかえり」
「……ただいま、泉慈」

 どうやらこの先、共に越えていく季節は、少なくはないようだから。