「明日、此処を立つ」

 朝、なんの前触れもなくそう宣った獣に思ったのは、“ああ、やはりな”という諦念にも似た確信だった。「そうか」。朝食に使った器を洗いながら短くそう答えた俺に、「ああ」と同じように短く獣が答える。雪の日のような無音の中で、桶の水が揺れる音と、器がぶつかる音だけが静かに響いていた。



 その日、昼から出掛けた獣は、日没前に兎を二匹捕まえて帰って来た。罠も無ければ弓矢を使うでもなく、獣いわく自ら捕まりに来たというその兎は、捌かれるその瞬間まで、本当に生きているのかと疑ってしまうくらいに全く抵抗を見せなかった。「餞別だろうか」。兎を捌きながら、獣が言った。「そうだといいな」。俺が返した言葉に、獣はただ静かに頷いた。



 最後の夜、俺と獣は初めて同じ床で眠りについた。そうしたいと獣が言い、断る理由も無かったのでそうした。別れ際の寂しさだとか、急に情が芽生えたとか、そんなことはまるでなく、お互いに指一本触れないまま、背中を向け合って眠りについた。「おやすみ」。「ああ、おやすみ」。その夜はなにか幸せな夢を見たような気がしたが、内容は全く覚えていなかった。



「ひとつ、聞いてもいいか」

 出立の朝、得物と鎧を包んだくるみを担いだ獣が、別れの挨拶を口にするでもなくそう問うた。

「答えられることなら答えるが」
「お前の名前はなんというんだ」
「……そういえば、俺もお前の名前を知らん」
「聞かれなかったからな」
「ああ。聞かなかったし、聞かれなかったな」

 暫しそのまま沈黙して、二人して同時に吹き出した。いまだ雪の残る銀世界で、腹を抱えて笑う俺達は端から見たら気違いか何かに見えたんじゃないだろうか。強ち間違いではないかもしれない。俺達は互いに名前すら知らない相手と一月あまりを共に過ごしていたのだから。知り合いでもないどころか、全くの赤の他人だ。なんら疑問に思わなかったあたり、二人共胆が座っているというか神経が太いというか。

「……改めて、俺は泉慈という」
「……そういえば、いつぞや訪ねてきた男がお前をそう呼んでいたな」
「ああ、いたな、そういえば」
「では、私も名乗らせてもらおう。私の名は、呂玲綺だ」
「呂玲綺」
「ああ」
「清い響きの、綺麗な名だな。お前によく似合っている」
「……ありがとう」

 別れの言葉ではなく感謝を告げて、獣は俺に背を向けた。温かくなりつつある日差しに煌めく雪の中を、しっかりとした足取りで歩んでいく小さな背中を、俺はずっと見つめていた。その姿が見えなくなるまで、その姿が見えなくなっても、ずっと、見つめていた。